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ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~ムスカウ公園・アイスレーベンとヴィッテンベルクのルター記念建造物群・古典主義の都ヴァイマル・ヴァルトブルク城・ロルシュの修道院とアルテンミュンスター・ライン渓谷中流上部・アーヘン大聖堂・ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト~





ドイツ 世界遺産 ドイツ中部 旅 古城

ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城

「この世の中には、さまざまな世界遺産がありますね。」
「そうですね。」

「ピラミッドのような大きなお墓もあれば、延々と続く万里の長城のような世界遺産もありますね。」
「はい。」

「世界一美しいステンドグラスを備えた大聖堂もあれば、太古の時代に使われていた巨大な洞窟もありますね。」
「はい。」

「私たちは、それらのほとんどのものを見ないまま一生を終えますね。」
「そうですね。」

「しかし、やはり一つか二つくらいは、海外の世界遺産を観光しておきたいところですね。」
「はい。」

「ヨーロッパには、日本では考えられないような素晴らしい世界遺産が数多く保存されていますよ。」
「そうなんですか。」

「しかし、多くの方は、「ドイツって何か世界遺産あったっけ?もしかしてベルリンの壁やノイシュバンシュタイン城のこと?」と考えてしまったのではないでしょうか。」
「はい。」

「ノイシュバンシュタイン城と言えば、ノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ南部のバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方にある城である。オストアルゴイ郡フュッセンの東南東方向(直線距離にて約4km)に位置する。バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築された。」

「ベルリンの壁と言えば、ベルリンの壁とは、冷戦の真っ只中にあった1961年8月13日にドイツ民主共和国(東ドイツ)政府によって建設された、西ベルリンを包囲する壁である。1989年11月10日に破壊され、1990年10月3日に東西ドイツが統一されるまで、この壁がドイツ分断や冷戦の象徴となった。」

「実際ドイツは、日本にはまずないような素晴らしい世界遺産がたくさんありますよ。」
「そうなんだ。」

「しかし、日本人にはほとんど知られていませんね。」
「そうですね。」

「観光地としても、フランスやイタリアに比べると認知度が低い傾向がありますね。」
「はい。」

「せっかく日本と同じような大きさで、人々の気質も似ていると言われている国なのに、この国の世界遺産すら知らないというのは、非常にもったいないことですね。」
「そうですね。」

「せめて、一部のエリアにあるものだけでも、世界遺産を知ってもらえたらと思います。」
「わかりました。」

「まず、ドイツのエリアについて説明します。」
「お願いします。」

「この国の北部エリアはハンブルクなどの都市があり、ブレーメンなどの街が日本人の人気を得ていますね。」
「はい。」

「ブレーメンと言えば、ブレーメンはドイツ10番目の大都市で、自由ハンザ都市ブレーメン州(通常ブレーメン州と短縮して呼ばれる)の州都である。ドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つであるブレーメン/オルデンブルク大都市圏に属している。ブレーメンはヴェーザー川の両岸に位置している。ヴェーザー川が北海に注ぐ河口の位置するブレーマーハーフェンから上流に約60 km遡った地点に位置する。」

「ハンブルクと言えば、ハンブルクは、ドイツの北西部に位置し、エルベ川河口から約100kmほど入った港湾都市である。正式には自由ハンザ都市ハンブルク(Freie und Hansestadt Hamburg, フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク)と称する。行政上では、ベルリン特別市と同様に、一市単独で連邦州(ラント)を構成する特別市(都市州)なので、ハンブルク特別市やハンブルク州といった呼称も見られる。」

「南部エリアには、「バンベルク市街」、「ヴィース巡礼教会」、「マウルブロン修道院の建造物群」などがありますよ。」
「はい。」

「マウルブロン修道院と言えば、マウルブロン修道院は、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州に残る中世の修道院である。ヨーロッパに残る中世のシトー会修道院の中でも、付属する建造物群も含めた総体が、最もよく保存されている。マウルブロンの町外れにあるが、町とは城壁で隔絶されている。修道院の設立は1147年のことであり、設立に際しては初のシトー会派ローマ教皇であったエウゲニウス3世の後援を受けた。」

「ヴィース巡礼教会と言えば、ヴィースの巡礼教会はドイツバイエルン州南部、ヴィース(行政上はシュタインガーテン)にあるキリスト教教会である。1745年から1754年にかけてヨハン・バプティストとドミニクス・ツィンマーマンによって建てられた。内装のロココ装飾によって著名である。シュタインガーテンはフュッセンの近郊に位置する自治体。」

「バンベルク市街と言えば、ここでいうバンベルク市街は、1993年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたドイツのバイエルン州バンベルク市の旧市街を指す。旧市街が世界遺産に登録された理由は、第二次世界大戦期に実質的に被害を受けることがなく、中世の景観が維持されているドイツでは稀な地域という点にある。」

「バンベルクと言えば、バンベルクは、バイエルン州オーバーフランケン行政管区の郡独立市で、バンベルク郡の郡庁所在地である。バンベルクは、大学都市であり、大司教の都市であり、ビールの都であり、行政都市である。この街は、人口約20万人の人口密集地域の中規模中心都市であり、オーバーフランケン地方の重要な中心地である。」

「ロマンチック街道の起点のある街には、「ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場」がありますよ。」
「そうなんだ。」

「ヴュルツブルク司教館と言えば、ヴュルツブルクのレジデンツは、ドイツのヴェルツブルクにある大司教の宮殿である。バロック建築様式を代表するヨーロッパでも屈指の宮殿であり、バルタザール・ノイマンの設計により、18世紀に建てられた。建物内には、様々な部屋があるが、中でも有名なのは、「階段の間」であり、柱の無い広大な吹き抜けに、画家ティエポロの描いた、世界で一番大きいフレスコ天井一枚画がある。1981年、庭園と宮殿前広場を含む形で「ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場」として世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「ロマンチック街道と言えば、ロマンティック街道は、ドイツのヴェルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートである。 ドイツでは、「観光街道」(ドイツ語表記では、Ferienstraβe - 休暇街道。ドイツでは150以上のこうした観光コースが指定されている)として指定されているものの一つ。ここでの街道とは、そのような1本の道があるというのではなく、ほぼ直線状に連なったドイツの観光名所を地図の上でつなげ、続けて観光するのに便利なように案内した順路のようなものである。」

「南部エリアは、日本人から人気のあるノイシュバンシュタイン城があり、世界遺産も豊富ですよ。」
「そうなんですか。」

「ドイツ中部には、ザクセンやノルトライン=ヴェストファーレンなどの街がありますね。」
「はい。」

「ノルトライン=ヴェストファーレンと言えば、ノルトライン=ヴェストファーレン州は、ドイツの16ある連邦州のひとつである。州別の人口数は国内第1位で、人口密度も都市州を除いてトップである。ヨーロッパを代表する工業地帯であるルール地方は州の南西部に位置し、これまで(西)ドイツ経済を牽引してきた。ドイツ全体で12ある人口50万人以上の都市の内、5つがこの州に集まる。州都デュッセンドルフをはじめ、ケルン、ドルトムント、エッセン、デュースブルクがそれである。」

「ザクセンと言えば、ザクセンは、ドイツの地域名である。現在は単にザクセンと言えばザクセン州を指すことが多い。しかし、州名にザクセンを含む州は他にザクセン=アンハルト州、ニーダーザクセン州がある。ザクセンの範囲は歴史的に大きく変動しており、現在のザクセン=アンハルト州やニーダーザクセン州、テューリンゲン州にまで及んだ時期もあった。」

「「ムスカウ公園」、「ヴァルトブルク城」、「古典主義の都ヴァイマル」などの世界遺産がありますよ。」
「そうなんだ。」

「ムスカウ公園(ポーランド語では「パルク・ムジャコフスキ(「ムジャクフ家の公園」を意味する言葉。ムジャクフとは、「ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウという伯爵」のことを指しています。)」)と言えば、ムスカウ公園はドイツとポーランドの間を流れるナイセ川にまたがるイギリス式庭園である。560ヘクタールもの広さをもつ。ドイツ側はバート・ムスカウ(英語版)、ポーランド側はウェンクニツァ(英語版)の町に接する。この地を所有していたヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵は、その頃イギリスで流行していた風景式庭園の手法に基づいて1815年に造園に着手した。彼は木や水流などの自然物を風景画のように配置する一方、それらと調和するような建物の建築・改築を行った。」

「古典主義の都ヴァイマルと言えば、「古典主義の都ヴァイマル」は、ドイツにあるユネスコの世界遺産登録物件のひとつである。ヴァイマルは、ゲーテとシラーらを代表とする、18世紀末から19世紀初頭にかけて花開いたドイツ古典主義の中心地として栄えた町である。世界遺産登録に当たっては、当時を偲ばせる建築物や公園など、合計11件が対象とされている。」

「ヴァルトブルク城と言えば、ヴァルトブルク城はドイツのテューリンゲン州にある史跡である。ゲーテ街道沿いにあるアイゼナハ郊外の山上に位置する。1999年12月、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。漆黒の外見が特徴的である。」

「中部ドイツにあるこの世界遺産は、どこにでもあるような公園とは一線を画していますよ。」
「はい。」

「広大な敷地面積を誇っている世界遺産ですよ。」
「そうなんだ。」

「この中部エリアは、このような世界遺産があるだけではなく、ライプチヒなどの有名な街がありますよ。」
「はい。」

「ライプチヒと言えば、ライプツィヒは、ザクセン州に属するドイツの都市である。人口は約52万1千人(2012年12月現在)、ザクセン州では州都ドレスデンをやや上回って最大の都市で、旧東ドイツ地域ではベルリンに次いで2番目である。日本語ではライプチヒとも表記される。」

「歩いているだけで、楽しい気分になれる空間が広がっていますよ。」
「そうなんですか。」

「中部エリアは、他のエリアとは大きく異なったある特徴がありますよ。」
「それは何ですか?」

「それは「地形」ですよ。」
「はい。」

「中部ドイツの地形は、非常に変わった形をしていますよ。」
「どういうことですか?」

「山や地平の形が、把握しづらい土地になっていますよ。」
「はい。」

「この地域は、太古の時代の活発な火山活動によって形成された地層ですね。」
「そうなんですか。」

「複雑な地形になっているエリアなので、世界遺産を観光する際は、是非そのような所もチェックしてください。」
「わかりました。」

「中部エリアには、ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵が所有していたムスカウ公園がありますよ。」
「はい。」

「ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵と言えば、ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ(1785年10月30日、ムスカウ城-1871年2月4日、コトブス近郊ブラニッツ城(ドイツ語版))は、ドイツ貴族で19世紀に活躍した造園家、ランドスケープアーキテクト、園芸家、作家、グルメ、世界旅行者である。自身の城と世界遺産にもなったムスカウ公園を通じて世界的に有名になった。ドイツの大地主は、ランドスケープアーキテクトとしても豊かな才能を発揮した独学の芸術家、さらに作家と世界の旅行者として、生涯きらびやかな人生を送る。 著書「社会の旅行者」は、自身と自身の芸術作品に関する特集を書き下ろしたものだった。」

「この公園はただの公園ではなく、世界遺産に指定されていますよ。」
「はい。」

「他の観光スポットを周りつつ散歩できる世界遺産ですよ。」
「そうなんだ。」

「気軽に観光できる世界遺産を求めている方は、是非ムスカウ公園でヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵の軌跡を追ってみましょう。」
「わかりました。」

「中部ドイツの観光が終わった後は、是非南部エリアにあるノイシュバンシュタイン城やロマンチック街道を観光してください。」
「はい。」

「これらの観光スポットは、日本の女性から大変人気のあるスポットですよ。」
「そうなんですか。」

「名前通りのロマンチックなロケーションが広がっていますよ。」
「はい。」

「「一度でいいから映画に出てくるような世界に浸ってみたい!」という方に、かなりおススメです。」
「わかりました。」

「恋人同士で行くのに最適なスポットですよ。」
「はい。」

「デートスポットを探している方は、是非観光してください。」
「わかりました。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~ムスカウ公園~

「ドイツには魅力溢れる観光地が山ほどあることは、もうお分かり頂けたと思われます。」
「はい。」

「もちろん素晴らしい世界遺産もたくさんありますよ。」
「そうなんだ。」

「エリアごとに、その世界遺産の種類が異なりますよ。」
「はい。」

「ドイツにあるすべての世界遺産を回るのは、なかなか難しいことですね。」
「はい。」

「「もし全部の世界遺産を観光するのが難しいなら、ここだけは絶対に行った方が良いという一カ所を知りたい!」と考えている方の為に、ドイツ中部の世界遺産の中で最も観光しやすい世界遺産をご紹介します。」
「お願いします。」

「その世界遺産とは、ドイツ中部にある「ムスカウ公園」ですね。」
「はい。」

「ムスカウ公園(ポーランド語では「パルク・ムジャコフスキ(「ムジャクフ家の公園」を意味する言葉。ムジャクフとは、「ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウという伯爵」のことを指しています。)」)と言えば、ムスカウ公園はドイツとポーランドの間を流れるナイセ川にまたがるイギリス式庭園である。560ヘクタールもの広さをもつ。ドイツ側はバート・ムスカウ(英語版)、ポーランド側はウェンクニツァ(英語版)の町に接する。この地を所有していたヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウ侯爵は、その頃イギリスで流行していた風景式庭園の手法に基づいて1815年に造園に着手した。彼は木や水流などの自然物を風景画のように配置する一方、それらと調和するような建物の建築・改築を行った。」

「この世界遺産は、ドイツのバート・ムスカウという地域にある世界遺産ですよ。」
「はい。」

「ドイツのバート・ムスカウという地域と言えば、ドイツ中部にある世界遺産「ムスカウ公園」は、ドイツのバート・ムスカウという地域にある世界遺産です。」

「中部ドイツの中でも、最も知名度のある観光地であるこのムスカウ公園は、およそ560ヘクタールの広さを持つ公園ですよ。」
「広いですね。」

「世界遺産に認定されている公園が素晴らしいと言われても、「でもそこってただの公園なんでしょ?」と思ってしまう方もいるかも知れませんね。」
「はい。」

「やはり560ヘクタールもあるとなると、その辺にある公園とは全く違うイメージのものになっていますよ。」
「はい。」

「期待せずに行ってみると、「こんなに広い公園だったの!?」と驚嘆することになる筈ですよ。」
「そうなんだ。」

「この世界遺産は、ドイツとポーランドの国境にありますよ。」
「はい。」

「有名なので、ご存じの方も多いかも知れませんね。」
「はい。」

「ドイツとポーランドの境目に流れている「ナイセ川」という川にまたがる観光スポットですよ。」
「そうなんだ。」

「ドイツとポーランドの境目に流れている「ナイセ川」と言えば、世界遺産「ムスカウ公園」はドイツとポーランドの国境にあります。ドイツとポーランドの境目に流れている「ナイセ川」という川にまたがる観光スポットなので、美しい水辺の風景を観ながら観光できるスポットとしてもおなじみです。」

「美しい水辺の風景を見ながら、観光できるスポットとしてもお馴染みですね。」
「はい。」

「この世界遺産はポーランド語では「パルク・ムジャコフスキ」と呼ばれていますよ。」
「はい。」

「「パルク・ムジャコフスキ」とは、「ムジャクフ家の公園」を意味する言葉ですね。」
「そうなんだ。」

「ムジャクフとは、「ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウという伯爵」のことを指していますよ。」
「はい。」

「つまり、このムスカウ公園という世界遺産は、元々ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウが着手した公園ですよ。」
「はい。」

「「個人が造園した公園が世界遺産になるなんて信じられない!」と、思わずビックリしてしまう世界遺産ですよ。」
「そうなんですか。」

「中に入ると、想像以上の美しいロケーションが広がっているので、さらに驚くことになると思われますよ。」
「はい。」

「この世界遺産は、第二次世界大戦の傷跡を感じさせない、美しい世界遺産ですよ。」
「そうなんですか。」

「しかし、今のようになるまでは、様々な歴史がありますよ。」
「はい。」

「興味のある方は、是非ヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウの辿った経歴などを調べてください。」
「わかりました。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~アイスレーベンとヴィッテンベルクのルター記念建造物群~

「「たとえ明日、世界が滅びようとも、明日、リンゴの木を植えよう。」これは、たとえ世の中がどんな状況になろうとも、自分のやらなければならないことを一歩一歩着実にやっていくことの大切さを説いた言葉ですね。」
「はい。」

「この言葉は、宗教改革で有名なマルティンルターの言葉ですね。」
「そうなんだ。」

「宗教改革で有名なマルティンルターと言えば、マルティン・ルター(1483年11月10日 - 1546年2月18日)は宗教改革の創始者である。聖アウグスチノ修道会に属するドイツ人神学教授として、ルターは「人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」ことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらした。キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウクスブルク信仰告白が形成された。」

「宗教改革と言えば、宗教改革とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状(しょくゆうじょう)批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。」

「たとえ誰かに認められなくても、小さな努力を積み重ねることが明日への希望につながるという意味ですね。」
「はい。」

「マルティンルターは、ドイツだけでなく世界的にも歴史的、文化的に大変重要な役割を持つ人物ですね。」
「そうですね。」

「彼は、1483年にドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれましたよ。」
「はい。」

「ドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンと言えば、マルティンルターは、ドイツだけでなく世界的にも歴史的、そして文化的に大変重要な役割をもつ人物です。彼は、1483年にドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれ、1546年この生まれ故郷で亡くなりました。アイスレーベンにはマルティンルターの足跡をたどる上で大変重要な建築物群が世界遺産として保存されています。」

「ザクセンと言えば、ザクセンは、ドイツの地域名である。現在は単にザクセンと言うとザクセン州を指すことが多い。しかし、州名にザクセンを含む州は他にザクセン=アンハルト州、ニーダーザクセン州がある。ザクセンの範囲は歴史的に大きく変動しており、現在のザクセン=アンハルト州やニーダーザクセン州、テューリンゲン州にまで及んだ時期もあった。」

「1546年、この生まれ故郷で亡くなりましたよ。」
「はい。」

「アイスレーベンには、マルティンルターの足跡をたどる上で大変重要な建築物群が、世界遺産として保存されていますよ。」
「そうなんですか。」

「アイスレーベンは、彼の生誕地であると共に、ルターが最期を迎えた地でもありますよ。」
「はい。」

「彼の生家と没した家を見ることができますよ。」
「はい。」

「生家は17世紀に再建されたものであると共に、ルター自身も生後9か月までしか居住していなかったため歴史的価値が高いとは言えませんね。」
「そうなんだ。」

「しかし、彼が没した家は、居住期間は短いもののほぼ当時のまま保存されていますよ。」
「はい。」

「肖像画や書簡など、貴重な展示品の数々を見ることができますよ。」
「はい。」

「アイスレーベンと合わせて世界遺産登録されたヴィッテンベルクは、「95ヶ条の論題」が提示された場所として有名ですね。」
「そうなんですか。」

「「95ヶ条の論題」と言えば、95ヶ条の論題は、正式名称『贖宥状の意義と効果に関する見解』と言い、1517年にマルティン・ルターが当時のカトリック教会の免償理解に疑義を呈して発表した文章、提題(テーゼ)である。」

「ヴィッテンベルクと言えば、ヴィッテンベルクはドイツ連邦共和国の都市である。正式名称はルターシュタット・ヴィッテンベルク。ザクセン=アンハルト州に属する。宗教改革の立役者であるマルティン・ルターが神学部の大学教授として教鞭をとった地として有名である。」

「宗教改革の中心地であったとも言われていますよ。」
「はい。」

「「95ヶ条の論題」は、当時横行していた免罪符の大量販売に疑問をもったルターが、その必要性に疑問を投げかけた提案書ですね。」
「はい。」

「これが宗教論争から政治論争へと発展し、後のプロテスタントを生むこととなる歴史的に重大な論題ですよ。」
「そうなんだ。」

「ヴィッテンベルクでは、ルターが住居として使用していた、元は修道院の建物であったルターホールや、人文主義者フィリップ・メランヒトンの住居などを見ることができますよ。」
「はい。」

「人文主義と言えば、人文主義は、英語humanism、フランス語 humanisme、ドイツ語Humanismusなどの訳語である。西欧語をそのまま写してヒューマニズム、ユマニスム、フマニスムスなどと表記されることも多い。その語義は広狭多様で、人間主義、人本主義、人道主義などの訳語もある。」

「人文主義者フィリップ・メランヒトンと言えば、フィリップ・メランヒトン(1497年2月16日 - 1560年4月19日)はドイツの人文主義者、キリスト教神学者である。ルター派。ルターの宗教改革において、ルターの思想の体系化に尽力。プロテスタント正統の基礎を築いたという面でカルヴァンと並び称される。」

「ルターが住居として使用していた元は修道院の建物であったルターホールと言えば、ヴィッテンベルクでは、ルターが住居として使用していた元は修道院の建物であったルターホールや、人文主義者フィリップ・メランヒトンの住居などを見ることができる。」

「当時ルターが説教を行っていたマルクト広場の町の教会や、「95ヶ条の論題」が扉に貼られていたことで知られる城付属教会堂なども見所の一つですね。」
「はい。」

「「95ヶ条の論題」が扉に貼られていたことで知られる城付属教会堂と言えば、当時ルターが説教を行っていたマルクト広場の町の教会や、「95ヶ条の論題」が扉に貼られていたことで知られる城付属教会堂なども見どころの一つです。この城付属教会堂はお城とユースホステルが隣接する変わった造りになっています。中には、質素な造りのルターのお墓があるので、このユースホステルに宿泊すると、教会内に眠るルターの魂と事実上一緒に眠ることができます。」

「マルクト広場と言えば、マルクト広場は、ベルギー北西部、西フランドル州の都市、ブルッヘ(ブリュージュ)の中心部にある広場である。州庁舎、郵便局、鐘楼、聖血礼拝堂をはじめ、ゴシック様式の歴史的建造物が並び、2000年に世界遺産(文化遺産)に登録された「ブリュージュ歴史地区」の中核を成す。」

「この城付属教会堂は、お城とユースホステルが隣接する変わった造りになっていますよ。」
「そうなんですか。」

「中には、質素な造りのルターのお墓がありますよ。」
「はい。」

「このユースホステルに宿泊すると、教会内に眠るルターの魂と事実上一緒に眠ることができますよ。」
「はい。」

「マルティンルターは、歴史の流れに逆らって、自分が正しいと思う信念に最期までしたがって激動の時代を生き抜きましたよ。」
「はい。」

「そのマルティンルターという人物に思いをはせながら、彼の足跡をたどってみるのも、新しい世界遺産の巡り方かも知れませんね。」
「そうですね。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~古典主義の都ヴァイマル~

「「人間を堕落に導く最も大きな悪魔は、自分自身を嫌う心である。」は、数々の名言を残した詩人ゲーテの言葉ですね。」
「そうなんですか。」

「詩人ゲーテと言えば、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)はドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家である。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。」

「世界の文化史上大変重要な人物であるゲーテは、晩年の20年ほどをヴァイマルというドイツ中部にある都市で過ごしましたよ。」
「はい。」

「元々は、農業王国の首都だった町ですが、人口わずか6000人の小規模な町でしたよ。」
「はい。」

「18世紀に当時の君主カールアウグストがあの有名なゲーテを行政官として招いてから、徐々に文化都市として発展していきましたよ。」
「そうなんだ。」

「18世紀当時の君主カールアウグストと言えば、ゲーテは、晩年の20年ほどをヴァイマルというドイツ中部にある都市で過ごしました。ヴァイマルは、もともと農業王国の首都だった町ですが、人口わずか6000人の小規模な町でした。18世紀に当時の君主カールアウグストがかの有名なゲーテを行政官として招いてから、徐々に文化都市として発展していき、同じく詩人であり思想家であるシラーが加わったことにより、ドイツ文化の一大拠点として繁栄しました。」

「同じく詩人であり思想家であるシラーが加わったことにより、ドイツ文化の一大拠点として繁栄しましたよ。」
「はい。」

「詩人であり思想家であるシラーと言えば、ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(1759年11月10日 - 1805年5月9日)は、ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家である。ゲーテと並ぶドイツ古典主義の代表者である(初期の劇作品群はシュトゥルム・ウント・ドラング期に分類される)。独自の哲学と美学に裏打ちされた理想主義、英雄主義、そして自由を求める不屈の精神が、彼の作品の根底に流れるテーマである。青年時代には肉体的自由を、晩年には精神的自由をテーマとした。彼の求めた「自由」はドイツ国民の精神生活に大きな影響を与えた。」

「その後も、音楽家リストをはじめ数多くの芸術家が、ヴァイマルの地に集まり文化活動を行ったそうですよ。」
「はい。」

「音楽家リストと言えば、フランツ・リスト(1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家である。両親の血統、母語、もっとも長い活躍地のいずれもドイツに属し、当時中東欧に多数存在したドイツ植民の一人だが、自身生地のハンガリー(当時はオーストリア支配下の形式的独立国としてのハンガリー王国の版図内、現在はオーストリアに帰属している)を祖国と呼び、死後もドイツ人(オーストリア人)よりはハンガリー人と記載されることが多い。」

「ゲーテとシラーは互いに深い友情で結ばれており、相乗効果で数多くの名作を生み出しましたよ。」
「そうなんですか。」

「ゲーテの代表作である「ファウスト」も、この地で完成したと言われていますね。」
「はい。」

「ゲーテの代表作である「ファウスト」と言えば、『ファウスト』はドイツの文人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの代表作とされる長編の戯曲である。全編を通して韻文で書かれている。『ファウスト』は二部構成で、第一部は1808年、第二部はゲーテの死の翌年1833年に発表された。」

「ゲーテは、シラーと共に宮廷劇場の運営にも力を注ぎ、数々の作品を上演しましたよ。」
「はい。」

「宮廷劇場と言えば、演劇は昔から王侯貴族に保護されていた。宮廷劇あるいは宮廷劇場という言葉は、広くは、あらゆる時代のあらゆる国の宮廷によって保護され演じられた演劇形式と、それが演じられた場所をさしうるが、ふつうは、ルネサンスの終りころから、19世紀前半ぐらいまでのヨーロッパにおいて行われた、それらの演劇(劇場,劇団)をさすことが多い。」

「現在は国民劇場となっている宮廷劇場は、20世紀にはドイツ国民議会が開かれ、「ワイマール憲法」が制定された、歴史的にも価値のある場所となりましたよ。」
「そうなんだ。」

「ワイマール憲法と言えば、ワイマール憲法は、第1次大戦後のドイツ革命によってドイツ帝政は崩壊し、それに代わっていわゆるワイマール共和国が成立した。1919年1月19日の総選挙によって選ばれた国民議会が、2月6日チューリンゲンの小都市ワイマールに新しい憲法の制定を主要任務として召集され、7月31日にドイツ共和国憲法Reichsverfassungを可決した。8月11日大統領がこれを認証し、8月14日公布、この日から実施された。そこで、この憲法をワイマール憲法と呼び、その時代のドイツをワイマール共和国というのが通例である。」

「ドイツ国民議会と言えば、フランクフルト国民議会は、1848年から1849年にかけてフランクフルト・アム・マインで開催された議会である。憲法制定を通じた自由主義的なドイツ統一を図り、その統一方式などを討議したが、最終的にはオーストリア、プロイセンといった有力君主国の支持を得られず頓挫した。正式名称は「憲法制定ドイツ国民議会」。」

「古典主義の都ヴァイマルには、ゲーテやシラーの家が記念館として保存されていますよ。」
「はい。」

「古典主義の都ヴァイマルと言えば、「古典主義の都ヴァイマル」は、ドイツにあるユネスコの世界遺産登録物件のひとつである。ヴァイマルは、ゲーテとシラーらを代表とする、18世紀末から19世紀初頭にかけて花開いたドイツ古典主義の中心地として栄えた町である。世界遺産登録に当たっては、当時を偲ばせる建築物や公園など、合計11件が対象とされている。」

「文化的に重要な数々の名所がありますよ。」
「そうなんですか。」

「市の城には、国立美術館やヴァイマル古典期財団が入っていますよ。」
「はい。」

「ヴァイマル古典期財団と言えば、古典主義の都ヴァイマルには、ゲーテやシラーの家が記念館として保存されているほか文化的に重要な数々の名所があります。市の城には、国立美術館やヴァイマル古典期財団が入っており当時の著名な絵画を見ることができます。」

「ヴァイマルの国立美術館と言えば、古典主義の都ヴァイマルには、ゲーテやシラーの家が記念館として保存されているほか文化的に重要な数々の名所があります。市の城には、国立美術館やヴァイマル古典期財団が入っており当時の著名な絵画を見ることができます。」

「当時の著名な絵画を見ることができますよ。」
「はい。」

「文学サロンの舞台となっていた寡婦アンナ・アマーリアの宮殿も、ヴィーラント記念館として残っていますよ。」
「そうなんだ。」

「ヴィーラント記念館(寡婦アンナ・アマーリアの宮殿)と言えば、文学サロンの舞台となっていた寡婦アンナ・アマーリアの宮殿もヴィーラント記念館として残っています。」

「寡婦アンナ・アマーリアと言えば、文学サロンの舞台となっていた寡婦アンナ・アマーリアの宮殿もヴィーラント記念館として残っています。アンナ・アマーリアが創設したアンナ・アマーリア大公妃図書館は、残念ながら2004年の火災で多くの蔵書が失われてしまいましたが、当時の様子を知ることができる貴重な資料が置かれています。」

「文学サロンと言えば、ロマン主義時代にはユゴーやノディエもサロンを開き、七月王政期にはジラルダン夫人のそれも知られるが、最後の文学サロンといわれたのはレカミエ夫人dame Recamier(1777‐1849)のサロンである。第二帝政期になると、公女マティルドのサロン(フローベール、ゴンクール兄弟などが出席)、プルタレス伯夫人のサロンなど貴族的サロンが再び現れ、第三共和政下ではジュリエット・アダン夫人、劇作家アルマン・ド・カイヤベなど作家自身の開くサロンが目だつようになる。」

「アンナ・アマーリアが創設したアンナ・アマーリア大公妃図書館は、残念ながら2004年の火災で多くの蔵書が失われてしまいましたよ。」
「残念ですね。」

「アンナ・アマーリア大公妃図書館と言えば、アンナ・アマーリアが創設した図書館である。なお、この図書館は2004年に火災に見舞われ、多くの蔵書が焼失した。」

「しかし、当時の様子を知ることができる貴重な資料が置かれていますよ。」
「はい。」

「ゲーテのガーデンハウスは、1776年にカールアウグストから贈られたものですよ。」
「はい。」

「ゲーテのガーデンハウスと言えば、ゲーテの家はワイマール市街にもありましたが、自由を愛するゲーテは、街外れのイルム河沿いの木陰にこの別荘(ゲーテのガーデンハウス)を立てて、こちらにいる事が多かったそうです。」

「イルム川を渡った静かな公園の中に、ぽつんと建っていますよ。」
「そうなんだ。」

「イルム川と言えば、ワイマール市街の少しはずれ、イルム川ほとりに森が茂り、崩れ城跡や塔などが佇むイルム公園がある。一見放置された森だか史跡のようにも見える公園には散策路が あり、管理人小屋や狩場の休憩所も建つ。」

「彼は1782年まで主にここで暮らし、庭園やイルム河畔公園の造園に力を注いだとされていますよ。」
「はい。」

「イルム河畔公園と言えば、 イルム河畔公園はゲーテが造園した公園である。」

「ゲーテの愛したその静かなたたずまいに、彼の思想の原点を考えさせられる人もいることでしょう。」
「そうですね。」

「音楽家リストの家もあり、リストにちなんだリスト音楽院学校も見ることができますよ。」
「はい。」

「リスト音楽院学校と言えば、リスト・フェレンツ音楽大学は、ハンガリーの首都ブダペストに拠点を構える音楽大学である。リスト音楽院やフランツ・リスト音楽院などと表記されることもある。略称:LFZE。1875年、作曲家リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)により創立。」

「音楽家リストと言えば、フランツ・リスト(1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家である。両親の血統、母語、もっとも長い活躍地のいずれもドイツに属し、当時中東欧に多数存在したドイツ植民の一人だが、自身生地のハンガリー(当時はオーストリア支配下の形式的独立国としてのハンガリー王国の版図内、現在はオーストリアに帰属している)を祖国と呼び、死後もドイツ人(オーストリア人)よりはハンガリー人と記載されることが多い。」

「哲学と美術と音楽と芸術の秋を彩るにふさわしい、文化的財産にたくさん出会える都と言えるでしょう。」
「そうなんだ。」

「人間を堕落に導く悪魔、自分自身を嫌う心にもし出会ってしまったら、ゲーテやリストの芸術に浸りながら、古典主義の都ヴァイマルで自分自身を見つめ直してみるのもいいかも知れませんね。」
「わかりました。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~ヴァルトブルク城~

「ヴァルトブルク城は、ドイツ中部のテューリンゲン州アイゼナッハの山頂に、威風堂々とそびえ立つ漆黒の城ですよ。」
「はい。」

「ドイツ中部のテューリンゲン州アイゼナッハと言えば、アイゼナッハは、ドイツ中部、チューリンゲン州の都市である。人口5万1000 (1980)。乗用車生産を中心とする工業と観光の町。1180年ごろ建市。市外にそびえるワルトブルク城で1521‐22年宗教改革家ルターが聖書をドイツ語に翻訳した。また1817年,500名の学生がこの城に集まりドイツ統一ののろしをあげた(ブルシェンシャフト)。69年ドイツ社会民主労働者党がこの町で結成された(アイゼナハ綱領)。J.S.バッハの生家がある。」

「ドイツ中部のテューリンゲン州と言えば、テューリンゲン州は、ドイツを構成する16の連邦州のひとつである。ドイツ語の"Freistaat" を逐語的に訳して「テューリンゲン自由州」とされることもある。ドイツ再統一時に誕生した新連邦州5州の一つ。州都はエアフルト。」

「ヴァルトブルク城と言えば、ヴァルトブルク城はドイツのテューリンゲン州にある史跡である。ゲーテ街道沿いにあるアイゼナハ郊外の山上に位置する。1999年12月、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。漆黒の外見が特徴的である。」

「ヴァルトブルク城は、千年に及ぶ歴史と共に宗教改革で有名なルターにもゆかりのある土地として、その知名度と人気から1999年にユネスコ世界遺産に登録されましたよ。」
「そうなんだ。」

「宗教改革と言えば、宗教改革とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状(しょくゆうじょう)批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。」

「建設が開始されたのは、1067年と言われていますね。」
「はい。」

「その後、複数の建物が異なる時代に建築され、幾世紀もの歳月をかけて現在の建物が出来上がりましたよ。」
「はい。」

「ヴァルトブルク城の由来は、当時のテューリンゲン伯爵であったルードヴィヒ・デア・シュプリンガーが、この山頂の景観に感銘を受け「待て(wart)汝我が城(burg)となれ」と叫んだことからきているとも言われていますよ。」
「そうなんだ。」

「テューリンゲン伯爵であったルードヴィヒ・デア・シュプリンガーと言えば、ヴァルトブルク城の由来は、当時のテューリンゲン伯爵であったルードヴィヒ・デア・シュプリンガーが、この山頂の景観に感銘を受け「待て(wart)汝我が城(burg)となれ」と叫んだことからきているとも言われています。」

「中世には、芸術の発信地としても栄えましたよ。」
「はい。」

「中でも著名な歌人たちがその腕を競い合ったことは、歌合戦伝説として今日まで広く世界中に伝わっていますよ。」
「そうなんですか。」

「著名な歌人たちがその腕を競い合った歌合戦伝説と言えば、ドイツ中部のテューリンゲン州アイゼナッハの山頂に威風堂々とそびえ立つ漆黒の城がヴァルトブルク城です。伝説の歌合戦の間も見ることができます。中には命を懸けた合戦もあったそうです。現代の歌合戦のイメージとはだいぶ異なります。」

「リヒャルト・ヴァーグナーは、この伝説の様子をオペラ「タンホイザー」に再現していますよ。」
「そうなんだ。」

「リヒャルト・ヴァーグナーのオペラ「タンホイザー」と言えば、『タンホイザー』WWV.70は、リヒャルト・ワーグナーが作曲した、全3幕で構成されるオペラである。正式な名称は『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』であるが、一般的には前者の題名で知られている。序曲、第2幕のエリザベートのアリア・「大行進曲」、第3幕のヴォルフラムのアリア「夕星の歌」は、独立してよく演奏される。」

「リヒャルト・ヴァーグナーと言えば、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(1813年5月22日 ライプツィヒ - 1883年2月13日 ヴェネツィア)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。」

「ヴァルトブルク城は、またマルティンルターが隠れ住んでいた場所であるとも言われていますよ。」
「はい。」

「宗教改革で有名なマルティンルターと言えば、マルティン・ルター(1483年11月10日 - 1546年2月18日)は宗教改革の創始者である。聖アウグスチノ修道会に属するドイツ人神学教授として、ルターは「人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」ことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたらした。キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウクスブルク信仰告白が形成された。」

「ルターは、当時の教会で横行していた免罪符の販売に疑問を投げかけた「95ヶ条の論題」を出したことで、ローマ教皇によって破門され、その後偽名を使ってヴァルトブルク城に匿われましたよ。」
「そうなんだ。」

「ローマ教皇と言えば、教皇は、キリスト教の高位聖職者の称号である。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。日本語では「ローマ法王」と表記されることもあるが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している。」

「「95ヶ条の論題」と言えば、95ヶ条の論題は、正式名称『贖宥状の意義と効果に関する見解』と言い、1517年にマルティン・ルターが当時のカトリック教会の免償理解に疑義を呈して発表した文章、提題(テーゼ)である。」

「そこで新約聖書を誰にでもわかりやすい言葉に翻訳し、民衆と共にある親しみやすい宗教を創造しましたよ。」
「はい。」

「さまざまな時代に増築されているので、建物も木造と石造りのものが乱立したユニークな造りとなっていますよ。」
「はい。」

「木骨組みの建物に囲まれた中庭は人気の観光スポットですね。」
「そうなんだ。」

「この建物は15世紀から16世紀に建設され、一説にはルターが住んでいた場所とも言われていますよ。」
「はい。」

「石造りの建物には、エリザベートの間がありますよ。」
「はい。」

「エリザベートの間と言えば、ヴァルトブルク城の石造りの建物には、エリザベートの間があります。入ったとたんに思わず息を呑む空間である。 天井から壁から一帯に黄金のまじったモザイクで物語が描かれている。」

「若くしてルードヴィッヒ4世に嫁いだハンガリー出身のエリザベートは、夫の死後、権力者によって城を追われ不遇の生涯を終えますよ。」
「そうなんですか。」

「若くしてルードヴィッヒ4世に嫁いだハンガリー出身のエリザベートと言えば、ドイツ中部のテューリンゲン州アイゼナッハの山頂に威風堂々とそびえ立つ漆黒の城、それがヴァルトブルク城です。石造りの建物には、エリザベートの間があります。若くしてルードヴィッヒ4世に嫁いだハンガリー出身のエリザベートは夫の死後、権力者によって城を追われ不遇の生涯を終えます。自らも質素な生活を送りながら病院を設立し、弱者のために尽くした彼女は死後聖人となりました。エリザベートの部屋の天井や壁には一面に彼女の生涯が描かれています。」

「自らも質素な生活を送りながら病院を設立し、弱者のために尽くした彼女は死後聖人となりましたよ。」
「はい。」

「エリザベートの部屋の天井や壁には、一面に彼女の生涯が描かれていますよ。」
「はい。」

「伝説の歌合戦の間も、見ることができますよ。」
「そうなんですか。」

「中には、命を懸けた合戦もあったそうですよ。」
「そうなんだ。」

「現代の歌合戦のイメージとは、だいぶ異なりますよ。」
「どういうこと?」

「マーブル模様の円柱と豪華な装飾が特徴の祝宴の間も、見所の一つですよ。」
「はい。」

「暖炉や天井の装飾も美しく、一説ではこの部屋を参考にした部屋が、あのシンデレラ城のモデルとなったノイシュバインシュタイン城にもあると言われていますよ。」
「そうなんですか。」

「シンデレラ城と言えば、シンデレラ城は、世界の複数のディズニーパークのランドマークであり、アトラクションである。その名が示すとおり映画『シンデレラ』に登場する城をモチーフとしている。東京ディズニーランドのシンデレラ城がそれ以前に完成したマジック・キングダムのシンデレラ城の複製であるため両者の共通点は非常に多い。」

「かの有名なゲーテは、ルターを尊敬していたとも言われていますよ。」
「はい。」

「そのせいか、この城の修復にも積極的だったとも言われていますよ。」
「そうなんだ。」

「この城がゲーテ街道の途中にあるのも、何か意味があるのかも知れませんね。」
「はい。」

「ゲーテ街道と言えば、ゲーテ街道は、ドイツの文豪ゲーテの足跡をたどるドイツ観光街道である。ゲーテの生地フランクフルトから終焉の地であるヴァイマルを経由し、学生時代を過ごした街ライプツィヒにいたる全長約400kmの街道。かつては東西ドイツの壁に阻まれ往来することが困難であったが、ドイツ統合により観光街道として整備された。起点がドイツの空の玄関とも言うべきフランクフルト、終点がやはり空港を備えた大都市のライプツィヒで、交通の便がよいことから、近年特に人気が高まっている観光街道である。」

「同じ城の中でも、さまざまな顔を持つヴァルトブルク城ですね。」
「はい。」

「著名人たちの不遇の時代をかいまみることもできるのではないでしょうか。」
「わかりました。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~ロルシュの修道院とアルテンミュンスター~

「ドイツ中西部のヘッセン州にある小さな町ロルシュには、1991年に文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録されたロルシュ王立修道院がありますよ。」
「はい。」

「ヘッセン州と言えば、ヘッセン州は、ドイツに16ある連邦州のひとつである。州都は、州南西部に位置するヴィースバーデン。経済の中心都市は州南部に位置するフランクフルトである。グリム兄弟の生地ハーナウを起点として北へ、グリム童話ゆかりの地を結ぶドイツ・メルヘン街道や、木組み建築の町、アルスフェルトなどの観光地がある。」

「ロルシュ王立修道院と言えば、ドイツ中西部のヘッセン州にある小さな町ロルシュには、1991年に文化遺産としてユネスコ世界遺産登録されたロルシュ王立修道院があります。西暦764年に信仰深いフランク王国の貴族カンコルとその母によって建設されました。彼らは初代修道院長を甥のクロデガングに託し、共に修道院を繁栄させていきました。2年後グロデガングはその職務を弟のグンデランドにゆずりました。」

「ドイツ中西部のヘッセン州にある小さな町ロルシュと言えば、ドイツ中西部のヘッセン州にある小さな町ロルシュには、1991年に文化遺産としてユネスコ世界遺産登録されたロルシュ王立修道院があります。西暦764年に信仰深いフランク王国の貴族カンコルとその母によって建設されました。」

「ドイツ中西部のヘッセン州と言えば、ヘッセン州は、ドイツ中西部にある州で、北はニーダーザクセン州、北西はノルトライン=ヴェストファーレン州、南西はラインラント=プファルツ州、南はバーデン=ヴェルテンベルク州、南東はバイエルン自由州、東はテューリンゲン自由州に接しています。面積は21,114.88平方キロメートルとドイツの州としては7番目の広さで、人口は6,092,354人でドイツで5番目に人口の多い州です。ヘッセン州の州都はヴィースバーデン、最大都市はフランクフルトです。」

「西暦764年に、信仰深いフランク王国の貴族カンコルとその母によって建設されましたよ。」
「はい。」

「フランク王国の貴族カンコルと言えば、ロルシュ修道院の歴史の始まりは、西暦764年に遡る。その年に、フランク王国の貴族カンコルと寡婦になっていた彼の母ヴィリスヴィンダが、自身の所領ラウリッサ(Laurissa, 現ロルシュ)に領主私有聖堂と修道院を建てたのである。彼らはその管理をカンコルの甥にあたるメス大司教のクロデガングに委ねた。クロデガングは、修道院と聖堂を聖ペテロに奉献し、最初の修道院長となった。」

「フランク王国と言えば、フランク王国は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国である。最大版図はイベリア半島とイタリア半島南部を除く西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域(今日のドイツ・フランス・イタリア・スイス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクに相当)に及び、この地域を統一支配した空前にして絶後の国家でもある。」

「彼らは、初代修道院長を甥のクロデガングに託し、共に修道院を繁栄させていきましたよ。」
「そうなんだ。」

「初代修道院長クロデガング(フランク王国の貴族カンコルの甥)と言えば、ロルシュ修道院の歴史の始まりは、西暦764年に遡る。その年に、フランク王国の貴族カンコルと寡婦になっていた彼の母ヴィリスヴィンダが、自身の所領ラウリッサ(Laurissa, 現ロルシュ)に領主私有聖堂と修道院を建てたのである。彼らはその管理をカンコルの甥にあたるメス大司教のクロデガングに委ねた。クロデガングは、修道院と聖堂を聖ペテロに奉献し、最初の修道院長となった。」

「2年後、グロデガングはその職務を弟のグンデランドにゆずりましたよ。」
「はい。」

「グロデガングの弟のグンデランドと言えば、766年にクロデガングはメス大司教としての職務を理由に、ロルシュの修道院の管理を離れ、代わりに14人のベネディクト会修道士たちとともに、後継者として弟のグンデランドをロルシュに送った。グンデランドは、修道院に巡礼者たちを集めるために、ローマ教皇パウルス1世から、聖ナザリウスの遺骸を手に入れた。聖ナザリウスはディオクレティアヌス帝の時代に3人の仲間とともに殉教した聖人である。」

「グンデランドは巡礼者たちを集めるために、当時のローマ教皇から聖遺物である聖人、聖ナザリウスの遺体を譲り受け、聖堂に納めましたよ。」
「そうなんだ。」

「聖ナザリウスと言えば、聖ナザリウスはディオクレティアヌス帝の時代に3人の仲間とともに殉教した聖人である。」

「ローマ教皇と言えば、教皇は、キリスト教の高位聖職者の称号である。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。日本語では「ローマ法王」と表記されることもあるが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している。」

「ロルシュ王立修道院は、ナザリウスの遺骸にあやかろうとする巡礼者たちで急速に栄えていきましたよ。」
「はい。」

「ロルシュ王立修道院と言えば、ドイツ中西部のヘッセン州にある小さな町ロルシュには、1991年に文化遺産としてユネスコ世界遺産登録されたロルシュ王立修道院があります。西暦764年に信仰深いフランク王国の貴族カンコルとその母によって建設されました。彼らは初代修道院長を甥のクロデガングに託し、共に修道院を繁栄させていきました。2年後グロデガングはその職務を弟のグンデランドにゆずりました。」

「聖ナザリウスの遺骸が納められてから、様々な恩恵がロルシュ修道院に与えられましたよ。」
「はい。」

「それは、聖ナザリウスの奇跡とも呼ばれていますよ。」
「そうなんですか。」

「聖ナザリウスの奇跡と言えば、ロルシュ王立修道院はナザリウスの遺骸にあやかろうとする巡礼者たちで急速に栄えていきます。聖ナザリウスの遺骸が納められてから様々な恩恵がロルシュ修道院に与えられした。それは聖ナザリウスの奇跡とも呼ばれ国内だけでなく、ヨーロッパの国々からも巡礼者が訪れるようになりロルシュ王立修道院は広くヨーロッパに知られるようになりました。」

「国内だけでなく、ヨーロッパの国々からも巡礼者が訪れるようになりましたよ。」
「はい。」

「ロルシュ王立修道院は、広くヨーロッパに知られるようになりましたよ。」
「はい。」

「ローマ教皇や皇帝たちは、この修道院に世界の領地を与えるなどの様々な特権を与えましたよ。」
「そうなんだ。」

「そのため、王立修道院は次第に政治的な影響力を持つようになりましたよ。」
「はい。」

「その結果、修道院は帝国修道院となりましたよ。」
「そうなんですか。」

「帝国修道院(神聖ローマ帝国直属の修道院)と言えば、ローマ教皇や皇帝たちはロルシュ王立修道院に世界の領地を与えるなどの様々な特権を与えたため王立修道院は次第に政治的な影響力を持つようになりました。その結果修道院は帝国修道院となり、事実上神聖ローマ帝国直属の修道院として最盛期を送っていました。カロング朝の当時の王であるルートヴィヒ2世とルートヴィヒ3世がここに葬られたことも修道院の力の大きさを裏付けています。」

「事実上、神聖ローマ帝国直属の修道院として最盛期を送っていましたよ。」
「そうなんだ。」

「神聖ローマ帝国と言えば、神聖ローマ帝国(800年/962年 - 1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家である。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」である。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、中世から近世にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。」

「カロング朝の当時の王であるルートヴィヒ2世とルートヴィヒ3世がここに葬られたことも、修道院の力の大きさを裏付けていますね。」
「はい。」

「カロング朝のルートヴィヒ3世と言えば、ロルシュ王立修道院は帝国修道院となり、事実上神聖ローマ帝国直属の修道院として最盛期を送っていました。カロング朝の当時の王であるルートヴィヒ2世とルートヴィヒ3世がここに葬られたことも修道院の力の大きさを裏付けています。」

「カロング朝のルートヴィヒ2世と言えば、ロルシュ王立修道院は帝国修道院となり、事実上神聖ローマ帝国直属の修道院として最盛期を送っていました。カロング朝の当時の王であるルートヴィヒ2世とルートヴィヒ3世がここに葬られたことも修道院の力の大きさを裏付けています。」

「カロング朝と言えば、ロルシュ王立修道院は帝国修道院となり、事実上神聖ローマ帝国直属の修道院として最盛期を送っていました。カロング朝の当時の王であるルートヴィヒ2世とルートヴィヒ3世がここに葬られたことも修道院の力の大きさを裏付けています。」

「ロルシュ王立修道院の付属図書館も、9世紀頃にはドイツの文化の中心地と言われるほど、豊かな蔵書を誇っていたよ。」
「はい。」

「ロルシュ王立修道院と言えば、ドイツ中西部のヘッセン州にある小さな町ロルシュには、1991年に文化遺産としてユネスコ世界遺産登録されたロルシュ王立修道院があります。西暦764年に信仰深いフランク王国の貴族カンコルとその母によって建設されました。彼らは初代修道院長を甥のクロデガングに託し、共に修道院を繁栄させていきました。2年後グロデガングはその職務を弟のグンデランドにゆずりました。」

「特に、キリスト教神学と西洋古典に関しては、大変貴重な資料の数々が納められていたと言われていますよ。」
「そうなんだ。」

「その後、蔵書はハイデルブルクを経由して、最終的にバチカン図書館の蔵書に組み込まれましたよ。」
「はい。」

「バチカン図書館と言えば、バチカン図書館は、現在バチカンに位置する、ローマ教皇庁の図書館である。世界最古の図書館の内の一つであり、歴史的図書の重要なコレクションを収容する図書館である。」

「ハイデルブルクと言えば、ハイデルベルクは、ドイツ連邦共和国バーデンヴェルテンベルク州北西部に位置する都市である。ライン川とネッカー川の合流点近くに位置する。ネッカー川及び旧市街を見下ろす高台にあるかつてのプファルツ選帝侯の宮廷であった城跡や、ドイツで最も古い大学ループレヒト=カールス大学で知られ、世界中の数多くの観光客や学者を惹きつけている。」

「栄光の日々もやがて終りを迎え、ロルシュ修道院は激動の時代を迎えますよ。」
「はい。」

「政治的に力を持っていた修道院は、さまざまな争いに巻き込まれますよ。」
「そうなんだ。」

「その結果、次第に衰退していきますよ。」
「はい。」

「特に三十年戦争にはロルシュの建物群は大きな被害を被り、ほとんどの建物が燃やされ廃墟となってしまいましたよ。」
「残念ですね。」

「三十年戦争と言えば、三十年戦争は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争である。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されるが、スウェーデンが参戦した1630年以降は、ハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。」

「今日ここを訪れると、その争いの悲惨さが想像できるような廃墟の遺構を見ることができますよ。」
「はい。」

「あたりは閑散としていて、王の門だけが世界遺産としても威光を放っているような印象を受けますよ。」
「はい。」

「遺産名にもなっている旧司教座聖堂という意味のアルテンミュンスターに向かう道には、無造作にニワトリが放し飼いになっていますよ。」
「そうなんですか。」

「旧司教座聖堂という意味のアルテンミュンスターと言えば、今日ロルシュ王立修道院を訪れるとその争いの悲惨さが想像できるような廃墟の遺構を見ることができます。あたりは閑散としていて、王の門だけが世界遺産としても威光を放っているような印象を受けます。遺産名にもなっている旧司教座聖堂という意味のアルテンミュンスターに向かう道には無造作にニワトリが放し飼いになっています。」

「一周回って観光するにも時間がかからない、ちょっと寄るのにふさわしいお手軽な世界遺産と言えるでしょう。」
「わかりました。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~ライン渓谷中流上部~

「「なじかは知らねど心わびて、昔のつたえはそぞろ身にしむ。さびしく暮れゆくラインのながれ、いりひに山々あかくはゆる。」これは、ゆったりとしたメロディーにのせて流れるローレライの歌ですね。」
「はい。」

「ローレライの歌と言えば、「ローレライ」の歌は、ドイツのライン川に伝わる伝説に想いを馳せたハインリッヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine:1797-1856)の詩に、多くの合唱曲で有名なドイツの作曲家フリードリヒ・ジルヒャー(Phillipp Friedrich Silcher:1789-1860) が1838年に曲をつけたものです。日本では明治時代に近藤朔風が訳詞を付けたものが親しまれています。」

「日本でも馴染みの深いこの曲は、ライン川渓谷中流上部ザンクト・ゴールにある岩山ローレライの伝説にちなんで作られましたよ。」
「そうなんですか。」

「ライン川渓谷中流上部ザンクト・ゴールにある岩山ローレライの伝説と言えば、その昔不実な恋人に絶望し、ライン川に身を投げた乙女が水の精ローレライになったというものです。彼女の声はたくさんの漁師を惑わし、以前はこの場所でたくさんの漁師たちが事故で命を落としました。その伝説の象徴として今日ではこのローレライの岩の上に妖精の像が立っています。」

「ライン川渓谷中流上部ザンクト・ゴールと言えば、ゆったりとしたメロディーにのせて流れるローレライの歌。日本でもなじみの深いこの曲はライン川渓谷中流上部ザンクト・ゴールにある岩山ローレライの伝説にちなんで作られました。ローレライはライン川にそびえ立つ岩山を表すとともにそこにまつわる妖精も表すと言われています。」

「ライン川と言えば、ライン川は、ヨーロッパを流れる川である。スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセンドルフ、クレーヴェなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。」

「ローレライと言えば、ローレライは、ドイツのラインラント=プファルツ州のライン川流域の町ザンクト・ゴアールスハウゼン近くにある、水面から130mほど突き出た岩山のことである。この岩山は、スイスと北海をつなぐライン川の中で、一番狭いところにあるため、流れが速く、また、水面下に多くの岩が潜んでいることもあって、かつては航行中の多くの舟が事故を起こした。 この「ローレライ付近は航行の難所である」ことが、「岩山にたたずむ美しい少女が船頭を魅惑し、舟が川の渦の中に飲み込まれてしまう」という伝説に転じ、ローレライ伝説が生まれた。」

「ローレライは、ライン川にそびえ立つ岩山を表すと共に、そこにまつわる妖精も表すと言われていますよ。」
「そうなんだ。」

「その昔不実な恋人に絶望し、ライン川に身を投げた乙女が水の精ローレライになったと言うものですね。」
「はい。」

「彼女の声はたくさんの漁師を惑わし、以前はこの場所でたくさんの漁師たちが事故で命を落としましたよ。」
「そうなんですか。」

「その伝説の象徴として、今日ではこのローレライの岩の上に妖精の像が立っていますよ。」
「はい。」

「ライン渓谷中流上部は、ライン川のラインラント・プファルツ州とヘッセン州のマインツからコブレンツまで、およそ65kmの長さに及ぶ渓谷ですよ。」
「はい。」

「コブレンツと言えば、コブレンツは、ドイツ連邦共和国の都市である。ラインラント=プファルツ州に属する。人口は約 10 万人。コプレンツとも表記される。モーゼル川とライン川の合流点に位置し、河川交通の要衝である。」

「ヘッセン州のマインツと言えば、マイン川はドイツを流れる河川である。バイエルン州に水源があり、ドイツ国内を東からフランケン地方を抜けて西に横断し、ヘッセン州のマインツでライン川に合流する。」

「ラインラント・プファルツ州と言えば、ラインラント=プファルツ州は、ドイツに16ある連邦州の一つである。州都はマインツ。世界有数のドライバーズサーキット・ニュルブルクリンクが州北部アールヴァイラー郡のアイフェル丘陵にある。」

「ドイツ中西部のヘッセン州と言えば、ヘッセン州は、ドイツ中西部にある州で、北はニーダーザクセン州、北西はノルトライン=ヴェストファーレン州、南西はラインラント=プファルツ州、南はバーデン=ヴェルテンベルク州、南東はバイエルン自由州、東はテューリンゲン自由州に接しています。面積は21,114.88平方キロメートルとドイツの州としては7番目の広さで、人口は6,092,354人でドイツで5番目に人口の多い州です。ヘッセン州の州都はヴィースバーデン、最大都市はフランクフルトです。」

「古くから、ライン川は中央における交易の交通手段として利用されてきましたよ。」
「そうなんだ。」

「ライン川と言えば、ライン川は、ヨーロッパを流れる川である。スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセンドルフ、クレーヴェなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。」

「神聖ローマ帝国時代には、この地域が帝国の中枢として機能していましたよ。」
「はい。」

「神聖ローマ帝国と言えば、神聖ローマ帝国(800年/962年 - 1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家である。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」である。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、中世から近世にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。」

「ライン川沿岸には、その影響でたくさんの集落が作られましたよ。」
「はい。」

「中世には、城塞も数多く作られましたよ。」
「そうなんですか。」

「多くの城塞が、廃墟になりましたよ。」
「はい。」

「中には、ホテルとして利用されているものもありますよ。」
「はい。」

「ライン川沿いには、今もなお多くの古城や古い町並みを見ることができますよ。」
「そうなんだ。」

「その景観の美しさで、ライン川渓谷中流上部は、別名「ロマンティックライン」と呼ばれていますよ。」
「はい。」

「ロマンティックライン(ライン川渓谷中流上部)と言えば、ライン川は、スイス・アルプスからオーストリア、ドイツを通り、フランス国境に接し、やがてオランダから北海へと注いでいる。全長1,300kmを超えるライン川の中でも、最も美しいのがその中域、特にマインツからコブレンツという街の間の約65kmだと言われている。この区間はクルージングの名所として世界的に有名で、その美しさから「ロマンティック・ライン」の異名をとると同時に、区間全域が「ライン渓谷中流上部」として世界遺産に登録されている。」

「この場所のクルージングは、大変人気がありますよ。」
「そうなんですか。」

「日本からの多くのツアーにも組み込まれているほどですよ。」
「そうなんだ。」

「茶色の城壁に筒状の塔が特徴の猫城は、ライン渓谷下りでは代表格とも言える有名な城ですね。」
「はい。」

「ライン渓谷下りと言えば、茶色の城壁に筒状の塔が特徴の猫城はライン渓谷下りでは代表格ともいえる有名な城で、城主だったカッツェンエーレン伯爵の名前から、猫城と呼ばれるようになりました。」

「茶色の城壁に筒状の塔が特徴の猫城と言えば、茶色の城壁に筒状の塔が特徴の猫城はライン渓谷下りでは代表格ともいえる有名な城で、城主だったカッツェンエーレン伯爵の名前から、猫城と呼ばれるようになりました。すぐ近くにある鼠城を睨むような様子が面白いです。」

「城主だったカッツェンエーレン伯爵の名前から、猫城と呼ばれるようになりましたよ。」
「はい。」

「猫城の城主だったカッツェンエーレン伯爵と言えば、ネコ城の名は、当時の城主カッツェンエーレンボーゲン伯爵の名とネコを意味する「Katze(カッツェ)」に由来するそうです。」

「すぐ近くにある鼠城を睨むような様子が面白いですね。」
「そうなんですか。」

「鼠城と言えば、ネズミ城の愛称で知られるトゥルンベルク城。カッツェネルンボーゲン家のラインフェルス城に対抗し、トリーア大司教ベームント2世がライン川右岸の徴税のため1356年から築城が始まる。後にカッツェ城(「ネコ城」)が建築され、ネコ城より小さかったなどの皮肉がこめられ「ネズミ城」と呼ばれるようになったと言われる。」

「ラインシュタイン城はライン川沿いで最も美しい古城のひとつであると言われていますよ。」
「はい。」

「ラインシュタイン城と言えば、ラインシュタイン城はライン川沿いで最も美しい古城のひとつであると言われています。10世紀に税関所として建築されました。」

「10世紀に税関所として建築されましたよ。」
「はい。」

「ゾーンエック城とライヒェンシュタイン城は、盗賊の巣窟となった城ですよ。」
「そうなんですか。」

「ゾーンエック城と言えば、ゾーンエック城とライヒェンシュタイン城は、盗賊の巣窟となった城で、当時は悪名高い城として大変有名になりました。」

「当時は、悪名高い城として大変有名になりましたよ。」
「はい。」

「ライヒェンシュタイン城は、現在博物館とレストランになっていますよ。」
「はい。」

「黒い尖塔が特徴的なシュタールエック城は、ライン下りの中ほどにあるバッハラッハの丘陵にある美しい城ですね。」
「そうなんだ。」

「ライン下りの中ほどにあるバッハラッハの丘陵と言えば、黒い尖塔が特徴的なシュタールエック城はライン下りの中ほどにあるバッハラッハの丘陵にある美しい城です。」

「ライン下りの中ほどにあるバッハラッハと言えば、バッハラッハというライン川沿いの小さな街です。ここはいわゆるライン川下りの真ん中辺りにある街で、昔からの木組みの家並みや城壁の見張り塔なんかも結構よく保存されている可愛らしいところだが、観光客は船でほとんど素通りしてしまうかわいそうな街でもある。」

「黒い尖塔が特徴的なシュタールエック城と言えば、黒い尖塔が特徴的なシュタールエック城はライン下りの中ほどにあるバッハラッハの丘陵にある美しい城です。現在はユースホステルになっており、手ごろな値段と眺望の良さから大変人気のあるホテルです。」

「現在はユースホステルになっていますね。」
「はい。」

「手頃な値段と眺望の良さから、大変人気のあるホテルですよ。」
「はい。」

「ローレライの対岸にあるのが、シェーンブルク城ですよ。」
「そうなんだ。」

「ローレライの対岸にあるシェーンブルク城と言えば、ローレライの対岸にあるのがシェーンブルク城です。中世の雰囲気漂う美しい城は、現在素晴らしいレストランとローレライを見渡せる眺望が人気の古城ホテルとして有名です。シェーンブルク城には、ローレライの7人姉妹の伝説がある。」

「中世の雰囲気漂う美しい城は、現在素晴らしいレストランとローレライを見渡せる眺望が人気の古城ホテルとして有名ですね。」
「わかりました。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~アーヘン大聖堂~

「ドイツで最初の世界遺産登録であり、ヨーロッパで最初の3大世界遺産の一つとして1978年に登録されたのが、アーヘン大聖堂ですよ。」
「はい。」

「3大世界遺産と言えば、世界三大一覧は、世界を代表する3つの事物の一覧である。あくまで、現状その言葉の意味として社会に流布している内容を記したものであり、具体的な数値に基づくランキングのトップ3と一致するとは限らない。日本の文化圏内だけで広まっている説も含まれる。3大世界遺産の一例として、万里の長城、ピラミッド、あとーつは不明です。おそらく明確な定義がないと思いますが、強いてあげるならばアンコールワットあたりでしょうか。」

「アーヘン大聖堂(ヨーロッパで最初の3大世界遺産の一つ、別名「皇帝の大聖堂」)と言えば、ドイツで最初の世界遺産登録、そしてヨーロッパで最初の3大世界遺産の一つとして1978年に登録されたのが、アーヘン大聖堂です。別名「皇帝の大聖堂」と呼ばれるこの聖堂は北ヨーロッパで最古の大聖堂と言われています。アーヘン大聖堂は786年にカール大帝の命によって建設されました。当時は宮殿教会の部分の建設でしたが、814年に没したカール大帝はこの宮殿教会に埋葬され、今もここに眠っています。当時としてはヨーロッパ最大規模のドーム建築の教会で、古典主義様式、ビザンティン様式、ゲルマン様式などさまざまな様式の建築法が使われました。」

「古典主義様式と言えば、古典主義(クラシシズム)とは、17、18世紀のヨーロッパにおける、古代ギリシャ・ローマの芸術のもつ形式美・理知・調和を尊重した芸術上の立場である。文学ではフランスのコルネイユ・ラシーヌ・ボワロー、ドイツのレッシング、イギリスのポープ・ジョンソンらに代表される。」

「別名「皇帝の大聖堂」と呼ばれるこの聖堂は、北ヨーロッパで最古の大聖堂と言われていますよ。」
「そうなんですか。」

「アーヘン大聖堂は、786年にカール大帝の命によって建設されましたよ。」
「はい。」

「カール大帝と言えば、カール大帝(742年4月2日 - 814年1月28日、アーヘン)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)である。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子で、カール1世とも言う。800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 - 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。」

「当時は、宮殿教会の部分の建設でしたよ。」
「はい。」

「814年に没したカール大帝は、この宮殿教会に埋葬され、今もここに眠っていますよ。」
「そうなんだ。」

「当時としては、ヨーロッパ最大規模のドーム建築の教会で、古典主義様式、ビザンティン様式、ゲルマン様式などさまざまな様式の建築法が使われましたよ。」
「はい。」

「ゲルマン様式と言えば、アーヘン大聖堂は、イタリアのラベンナにあるサン・ヴィターレ聖堂を模したといわれていますが、ビザンティン様式からゲルマン様式、さらにはフランク王国の様式を兼ね備えたきわめて 貴重な記念碑的建造物です。」

「ビザンティン様式と言えば、ビザンティン様式は、4世紀頃から始まった東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の建築・装飾様式である。ギリシャやトルコなど、地中海東側に見られる。建築では大ドームやモザイク壁画が特徴で、イスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂やベネチアのサン・マルコ大聖堂が代表的。家具では象嵌 (ぞうがん)や彫刻などで装飾されたものが多く見られる。」

「ドーム建築と言えば、アーヘン大聖堂の中心は宮殿教会である。それは後世の増築部分と比較すると驚くほど小さいが、建設当時は、それはアルプス以北では最大のドーム建築であった。」

「八角形のドームを中心とするこの大聖堂は、また10世紀から16世紀にかけて、神聖ローマ帝国の30人の皇帝の戴冠式が行われた場所としても有名ですよ。」
「そうなんですか。」

「神聖ローマ帝国の30人の皇帝と言えば、アーヘンの大聖堂は、936年から1531年 までの間に、30人以上の皇帝が戴冠した場所としても知られています。」

「神聖ローマ帝国と言えば、神聖ローマ帝国(800年/962年 - 1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家である。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」である。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、中世から近世にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。」

「ドーム状の建物内部に、10世紀頃に作られた皇帝の玉座が置かれていますよ。」
「はい。」

「戴冠式は、この場所で行われたと言われていますよ。」
「はい。」

「特徴である八角形のドームにも、カール大帝の隠れた意図を見出すことができますね。」
「そうなんだ。」

「8はキリスト教で復活を表す数字ですね。」
「そうなんですか。」

「そして、八角形は円の中で四角形を組み合わせることによってできていますよ。」
「はい。」

「円は永遠の神を、四角は私たちが生きるこの世界を意味していると考えられますね。」
「はい。」

「一説では、カール大帝は神の世界と私たちの生きる世界の融合を、アーヘン大聖堂で表していたのではないかと言われていますよ。」
「そうなんだ。」

「現在アーヘン市庁舎として一部が残されているのは、カール大帝の宮殿であった所ですよ。」
「はい。」

「アーヘン市庁舎と言えば、アーヘン市庁舎は、マルクト広場を見守る重厚なゴシック様式の市庁舎である。皇帝居城として14世紀に建てられた。内部見学はツアー形式のみ。クーヴェン博物館とのコンビチケットもある。」

「アーヘン市と言えば、アーヘンは、ドイツ連邦共和国の都市である。ノルトライン=ヴェストファーレン州に属する。フランス語名はエクス・ラ・シャペル (Aix-la-Chapelle)。ラテン語名はアクアエ・グラニ (Aquae-Grani, Aquisgranum)。ベルギー、オランダ国境に近接している。近隣の都市としては、東の方角にケルン、西の方角にマーストリヒト(オランダ)が挙げられる。」

「当時は長い廊下で宮殿と大聖堂がつながっていたとも言われていますよ。」
「はい。」

「そこにも、カール大帝が神の世界との融合を自分の権力の象徴としていたことがうかがえますね。」
「そうなんだ。」

「15世紀初めにカール大帝没後600年を記念して、ガラス窓の面積を多くとった通称「ガラスの家」といわれる部分が増築され、記念式典が行われましたよ。」
「はい。」

「ガラスの家と言えば、『ガラスの家』は、2013年9月3日より同年10月29日までNHKのドラマ10で放送された日本のテレビドラマである。主演は本作が連続ドラマ初主演となる井川遥。脚本は『セカンドバージン』の大石静。」

「11世紀初めには、カール大帝の霊安室が初めて開かれましたよ。」
「はい。」

「遺体は玉座に座り、皇帝のローブを身にまとい、頭には戴冠、膝には福音書という非常に珍しい状態で保存されていたそうですよ。」
「そうなんですか。」

「同じ場所にアウグストゥスの遺骨もあったことが、12世紀に発見されていますよ。」
「はい。」

「アウグストゥスと言えば、アウグストゥス(紀元前63年9月23日- 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年- 紀元14年)である。志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した。」

「アーヘン大聖堂の宝物館には、歴代の傑作が数多く展示されていますよ。」
「はい。」

「アーヘン大聖堂の宝物館と言えば、アーヘン大聖堂の宝物館は後期古典主義、カロリング朝時代、オットー朝とシュタウヘン朝の時代の傑作を展示しており、それらの中には「ロタールの十字架」や「カール大帝の胸像」や「ペルセフォネの石棺」のようなユニークな展示もいくつかある。アーヘンの大聖堂宝物館は北部ヨーロッパにおける最も重要な教会の宝物館の一つとして言及される。」

「ヨーロッパで最も重要な宝物館の一つとして数えられていますよ。」
「そうなんだ。」

「宝物館には、カール大帝の黄金の胸像をはじめとするカール大帝関連のものから、中世の金細工の中で最も価値のあるものと言われているロータルの十字架など、歴史的に美術的にも大変価値のあるものが展示されていますよ。」
「はい。」

「ロータルの十字架と言えば、アーへンの大聖堂宝物館は北部ヨーロッパにおける最も重要な博物館で、黄金のカール大帝の胸像やロタールの十字架など当時の貴重な遺物が展示されている。ロタールの十字架にちりばめられた宝石は、横から見るとどれも小さい柱で支えられた神殿の形をしており、全体はエルサレム市街を模しているのだそうです。」

「大聖堂の祭壇は、素晴らしいステンドグラスで装飾されていますよ。」
「はい。」

「優しい光が、聖堂内を照らしていますよ。」
「そうなんだ。」

「祭壇には、キリストや時の聖人たちの聖遺物が展示されていますよ。」
「はい。」

「信仰に生きる人々の奇跡を信じる魂を今も癒していますね。」
「そうなんだ。」





ドイツの世界遺産とドイツ中部の旅と古城~ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト~

「18世紀初め、時のケルン大司教そして神聖ローマ帝国の国王を選出する位についていたクレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンは、鷹狩りが大好きでしたよ。」
「はい。」

「クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンと言えば、クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン(1700年8月16日 -1761年2月6日)は、ケルン大司教にして選帝侯である。ドイツ騎士団総長。その他いくつかの領主司教を兼ねる。」

「ケルン大司教と言えば、ケルン大司教は、カトリック教会のドイツ、ケルン教区の首長、大司教である。中世には寄進などによる膨大な領地をもち、領地からの収入および交易都市であるケルンからの財源収入により大きな経済力を持った。神聖ローマ帝国の選帝侯をつとめるなど、かつては世俗にも影響力を及ぼした。この状態はケルン大司教領が世俗化されるまで続いた。三十年戦争では、その地位をフランス王国に脅やかされた。」

「神聖ローマ帝国と言えば、神聖ローマ帝国(800年/962年 - 1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家である。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」である。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、中世から近世にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。」

「鷹狩りとは、古代より全世界で行われているタカを使った狩猟方法ですね。」
「はい。」

「タカなどを訓練し、鳥類や小動物を捕まえさせ餌とすり替えるという方法ですね。」
「そうなんだ。」

「現代でも、南アフリカなどの国で行われていますよ。」
「はい。」

「この鷹狩りを存分に楽しむために、クレメンスはケルンの郊外にあるブリュールに鷹狩り用の宮殿を建てましたよ。」
「はい。」

「ブリュールと言えば、ブリュールは、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴェルテンベルク州ライン=ネッカー郡に属する町村(以下、便宜上「町」と記述する)。人口約14,300人を擁する町で、総人口240万人のライン=ネッカー大都市圏の一角をなす。1157年に初めて文献に記録されたブリュールは、長らくシュパイアー司教領およびプファルツ選帝侯領に属した。初めはライン川沿いの農村から発展し、ロールホーフと合併し、20世紀にはマンハイムの衛星都市となって、多くの住民がマンハイムへ通っている。」

「それが、1984年にユネスコ世界遺産に登録されたドイツの世界遺産の一つ、「ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト」ですよ。」
「そうなんだ。」

「別邸ファルケンルストと言えば、ファルケンルストは、鷹狩り用の宮殿として1729年から1740年に建造されたもので、実際の建築にあたったのはキュヴィイエである。この別邸はケルン大司教の東洋趣味を反映してロココ様式とシニワズリ(ヨーロッパで流行した中国趣味の美術様式)が同居している。」

「アウグストゥスブルク城と言えば、アウグストゥスブルク城は、ドイツ西部、ノルトライン‐ウェストファーレン州、ケルン近郊の町、ブリュールにあるロココ様式の城館である。18世紀、ケルン大司教クレメンス=アウグスト=フォン=バイエルンにより建造。バロック様式のシュロス庭園、鷹狩のための宮殿として建造されたファルケンルストとともに、1984年、世界遺産(文化遺産)に登録された。アウグストスブルク城。アウグストゥスブルク宮殿。」

「宮殿は、バルタザール・ノイマンをはじめとする時の巨匠たちによって建てられましたよ。」
「はい。」

「バルタザール・ノイマンと言えば、ヨハン・バルタザール・ノイマン(1687年1月30日(推測)ヘプ(チェコ)- 1753年8月19日 (?)ヴュルツブルク)はバロックおよびロココの建築家である。通常はバルタザール・ノイマンと呼ばれる。」

「宮殿は、徐々に華やかそして豪勢にその芸術性を高めていきましたよ。」
「はい。」

「特に圧巻なのは、ノイマンが手掛けた豪華な装飾柱がある階段室ですね。」
「そうなんだ。」

「階段室は、淡いアンティークブルーを基調としたパステルカラーで装飾されていますよ。」
「はい。」

「その見事な天井画と柱の彫刻が特徴的ですね。」
「はい。」

「一見大理石に見えるこの部屋は、実は全て装飾がなされた木製だそうですよ。」「そうなんですか。」

「幾度かの再建築を経て、建築開始からおよそ40年後に、現在の豪華なロココ様式の宮殿が出来上がりましたよ。」
「はい。」

「ロココ様式と言えば、ロココ様式は、18世紀、ルイ14世時代末からルイ15世時代のフランス宮廷を中心にヨーロッパで栄えた装飾様式である。1730~70年が最盛期。繊細さ・優美さ・軽快さが特徴。建築ではベルサイユ宮殿の小トリアノンが代表例。工芸ではマイセンやセーブルの磁器、チッペンデールの家具などを生み出した。岩や貝などをかたどった曲線状の「ロカイユ模様」が多用されたことに由来。」

「宮殿前のバロック様式の庭園を手掛けたのは、フランスのドミニク・ジラールがフランスの伝統技法で設計したと言われていますよ。」
「はい。」

「フランスのドミニク・ジラールと言えば、ドミニク・ジラール(1680年-1738年)は、フランスの造園家、建設エンジニアである。バロック様式宮殿の庭園制作に尽力、その代表作には、ニンフェンブルクとシュライスハイム、ミュンヘンの近くに、ウィーン・ベルヴェデーレ宮殿庭園との庭城アウグストゥスブリュールがある。」

「バロック様式と言えば、バロック様式は、16世紀から18世紀初頭にかけてヨーロッパ各国に広まった美術・建築・文化の様式である。曲線や楕円が多く用いられ、豪華な装飾が特徴。建築では、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂やフランスのベルサイユ宮殿が代表的。「バロック」は、過剰な装飾を比喩したポルトガル語「barroco(歪んだ真珠)」の転とされる。」

「別邸と宮殿庭園の一部である花園は、ドイツの著名な造園家であるペーター・ヨセフ・レンネにより改良され、風景式庭園となりましたよ。」
「はい。」

「風景式庭園と言えば、風景式庭園とは庭園の作庭技法の1つで、平面幾何学式庭園と違い曲線を多用し、なだらかな起伏を要し、自然風景のように作庭される庭園様式である。通常はイギリス式庭園を指す。ガーデニングの意味するところは囲まれた世界の中でするということで、中世では皇帝や王族のために徹底して造られていくようになった。そうしたガーデンは規模も視野も巨大化していく。」

「ドイツの著名な造園家であるペーター・ヨセフ・レンネと言えば、ペーター・ヨセフ・レンネ(789年9月29日 - 1866年1月23日)は、ドイツの造園家である。庭園を対象とする造園家として実務を展開する一方で、公園の設計や都市の緑地計画、また造園の教育者・研究者としても活躍。」

「以来、修復を重ね念入りに手入れされてきたおかげで、今も18世紀の面影を残す庭園として人々から愛されていますよ。」
「そうなんですか。」

「ファルケンストは、ファルケン=鷹という名前の通り鷹狩り専用の別荘ですよ。」
「はい。」

「この別荘は、当時流行っていた東洋趣味を反映したシノワズリとロココ様式のミックス調で建てられていますよ。」
「はい。」

「東洋趣味を反映したシノワズリと言えば、ファルケンストは、ファルケン=鷹という名前の通り鷹狩り専用の別荘です。この別荘は、当時はやっていた東洋趣味を反映したシノワズリとロココ様式のミックス調で建てられています。鷹狩り専用の別荘にふさわしく、森の中の鷹狩りの獲物であるサギの通り道に建てられたそうです。吹き抜け階段の壁画には一面に鷹狩りの様子が描かれています。」

「鷹狩り専用の別荘にふさわしく、森の中の鷹狩りの獲物であるサギの通り道に建てられたそうですよ。」
「そうなんですか。」

「吹き抜け階段の壁画には、一面に鷹狩りの様子が描かれていますよ。」
「はい。」

「中には鷹狩りの博物館もあり、鷹狩りの様子が展示されていますよ。」
「はい。」

「クレメンスの鷹はとても優秀で、獲物を得るために何十キロも飛行できるような鷹であったと言われていますよ。」
「そうなんだ。」

「大空を駆け巡る鷹の目にアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルストはどのように映っていたのでしょうか。」
「どうでしょうか。」

「そんなことを考えながら、宮殿と別荘をつなぐ森の小道を歩いてみるのもいいかも知れませんね。」
「わかりました。」

ドイツの世界遺産とドイツ北部の旅~ハンザ同盟都市リューベック・シュトラールズント及びヴィスマールの歴史地区・ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群・デッサウ・ヴェルリッツの庭園王国・ベルリンのムゼウムスインゼル・ランメルスベルク鉱山、歴史都市ゴスラーとオーバーハルツ水利管理システム・ブレーメンのマルクト広場の市庁舎とローラント像・クヴェードリンブルクの聖堂参事会教会、城と旧市街~

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