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イタリアの世界遺産と観光名所~サヴォイア王家の王宮群・ヴァル・ドルチャの丘陵地帯・クレスピ・ダッダ・ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ・ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群・モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場・レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観・レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院~





イタリア 世界遺産 観光名所

イタリアの世界遺産と観光名所

「世界遺産は、旅の大きな動機になってくれますね。」
「そうですね。」

「どこかの土地に出かけた時に、その土地にあれば必ず足を運ぶと思いますよ。」
「はい。」

「別に日本人だけではなく、アメリカ人もイタリア人もチュニジア人もブラジル人も、世界遺産をある種の旅の目当てとして、世界中を旅して回りますね。」
「はい。」

「しかし、いくら世界遺産が人を引き付ける魅力を持っていたとしても、地球の最果てにあるような場所には、なかなか人は足を運びませんね。」
「そうですね。」

「世界中の観光地を回る予定の人なら別ですが、やはり日本人が縁遠い国を実際に訪れる機会は、少ないはずですよ。」
「そうだと思います。」

「イタリアは世界遺産が旅のおまけになる国であることについてですが、その点、ヨーロッパ、特にイタリアは違いますね。」
「はい。」

「イタリアにも世界遺産は多く、北部のトリノ、ミラノ、ジェノバ辺りだけを見ても豊富にありますよ。」
「そうですね。」

「イタリアのジェノバと言えば、ジェノヴァは、イタリア共和国北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約58万人の基礎自治体(コムーネ)である。リグーリア州の州都であり、ジェノヴァ県の県都である。リグリア海に面した港湾都市で、中世には海洋国家として栄え(ジェノヴァ共和国)、商工業・金融業の中心地としての長い歴史を持つ。現代のジェノヴァ港はイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っている。」

「イタリアのミラノと言えば、ミラノは、イタリア及び南ヨーロッパ最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(英: Milan)、フランス語ではミラン(仏: Milan)、ドイツ語ではマイラント(独:Mailand)、スペイン語ではミラン(西: Milan)、ラテン語ではメディオラーヌム(羅:Mediolanum)と言う。」

「イタリアのトリノと言えば、トリノは、イタリア共和国ピエモンテ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約87万人の基礎自治体(コムーネ)である。ピエモンテ州の州都であり、トリノ県の県都。イタリア第4の人口規模を持つ。都市圏の人口は約170万人。一時は100万都市だったが昨今は人口減少が著しい。ミラノに次ぐイタリア第2の工業都市であり、自動車工業の拠点である。」

「かといって、世界遺産しか周辺に見所が無いわけではありませんよ。」
「はい。」

「イタリア、特にイタリア北西部は観光資源が豊富なので、世界遺産も旅の1つ、極端な例では旅のおまけにすらなってしまいますよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア、トリノについてですが、イタリア北西部の町、トリノにも世界遺産はありますよ。」
「はい。」

「例えば、サヴォイア王家の王宮群などは有名ですね。」
「はい。」

「サヴォイア王家と言えば、サヴォイア家(伊: Casa di Savoia カーサ・ディ・サヴォイアもしくはサヴォイヤ)は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族であった家系である。1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王国の王家となった。フランス語名からサヴォワ家(Maison de Savoie サヴワ)と呼ばれることもある。」

「トリノ近郊にある王族の宮殿と庭園が美しい世界遺産で世界中から人を集めていますよ。」
「そうなんだ。」

「トリノの観光地は、サヴォイア王家の王宮群だけではありませんよ。」
「そうなんですか。」

「エジプト博物館や国立映画博物館、ドゥオモと聖骸布博物館などが市内にありますよ。」
「そうなんだ。」

「聖骸布博物館と言えば、聖骸布は、数百年の年月を経て色あせた布である上、シャンベリーで火災にあい、何カ所も焼失してしまっているため、初めて目にした人々にはどこに顔があるのか分からない。聖骸布博物館には聖骸布のレプリカや3D画像と、聖骸布の辿って来た16世紀以降の歴史、科学分析の方法、結果やそれにまつわるエピソードが展示されている。こちらもオーディオガイドつきで。パネル説明はイタリア語のみ。」

「ドゥオモと言えば、ドゥオーモ(Duomo)はイタリア語で、イタリアでの街を代表する教会堂の事である。ローマ以外での司教座聖堂の大聖堂にほぼ同じ。ラテン語のDomusが語源で、神の家を意味する。旅行ガイドなどにはドゥオーモとそのまま書いている。また、ドゥオモ、ドウモウとも表記される。ドゥオーモと呼ばず司教座聖堂の意味のカッテドラーレ(cattedrale)と呼ぶ地方もある。」

「トリノの国立映画博物館と言えば、国立映画博物館は、イタリアのトリノにある映画博物館である。創立者の名を取ったマリア・アドリアーナ・プローロ財団によって運営されている。1941年、歴史家マリア・アドリアーナ・プローロが映画関連資料の収集を開始、1958年にキアブレーゼ宮の中に博物館を開館する。2004年には同博物館を主要な舞台とした劇映画『トリノ、24時からの恋人たち』が製作されている。」

「トリノのエジプト博物館と言えば、エジプト博物館は、イタリア・トリノにある古代エジプト専門の博物館である。エジプト・カイロにあるエジプト考古学博物館に次ぐ規模のエジプト美術を収蔵している。古代エジプト関連で1630年に初めてトリノに持ち込まれたのが「Mensa Isiaca」というエジプト様式の祭壇 で、ローマのイシス神殿の為に作られたものとされる。」

「郊外には、フィアットやフェラーリなどイタリア車を並べた自動車博物館もありますよ。」
「はい。」

「イタリア車を並べた自動車博物館と言えば、イタリア北西部の町、トリノの郊外にはフィアットやフェラーリなどイタリア車を並べた自動車博物館もあります。ロードカーに関しては世界各国のモデルが集められており、レーシングカーではイタリア車が中心となっています。興味深い展示としては、アルファロメオ ジュリエッタの木型(1954年)や、実物を並べる形で表したタイヤの歴史といったものが ありました。」

「イタリア車のフェラーリと言えば、フェラーリ(Ferrari S.p.A)は、イタリア、モデナ県マラネッロに本社を置く自動車メーカーである。フィアットグループの傘下で、高級グランツーリスモ及び高級スポーツカーのみを製造している。」

「イタリア車のフィアットと言えば、フィアット(FIAT S.p.A.)は、イタリア・トリノを拠点とする同国最大の企業グループである。社名のFIATとはFabbrica Italiana Automobili Torinoの頭文字を取ったものである。「トリノのイタリア自動車製造所」の意味。トリノ市のリンゴット地区に本拠を置くことから、フィアット本社工場と「リンゴット」はしばしば同義とされる。「フィアット、陸に、海に、空に」のスローガンの元、自動車のみならず、鉄道車両や船舶、航空機の製造などの産業分野全般を掌握し、出版、金融等にも進出している。かつては「フランスはルノーを持っているが、フィアットはイタリアを持っている」とまで評された。」

「トリノは、最近冬季の五輪が開かれたくらい大きな町ですよ。」
「はい。」

「気持ちよく町並みが発展していますよ。」
「そうなんだ。」

「カフェ、本屋、雑貨屋などオシャレなショップもそこかしこにありますよ。」
「はい。」

「純粋に観光地として魅力のある都市ですよ。」
「そうなんだ。」

「訪れたついでに、世界遺産を巡るプランも可能になりますよ。」
「はい、わかりました。」

「イタリア、ミラノについてですが、イタリアのミラノは、世界的に有名な都市の1つですね。」
「はい。」

「有名なサッカーチームの本拠地として知っている人も居るでしょう。」
「そうですね。」

「ファッションの町として知っている人も居るはずですよ。」
「はい。」

「町並みはとにかく美しく、アーチ型ガラス天井を持ったモールも存在しますよ。」
「はい。」

「おしゃれなカフェやレストランが点在し、町を歩くだけでも飽きませんよ。」
「そうなんですか。」

「そのミラノの圏内には、クレスピ・ダッダという町がありますよ。」
「はい。」

「クレスピ・ダッダと言えば、クレスピ・ダッダは、イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオというコムーネにある、労働者のための町の名前である。19世紀にクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピにより労働者のための理想郷としてアッダ川とブレンブロ川が合流する三角地帯に建設された。1995年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「隣町ボローニャとの間には、モデナの大聖堂などの見所もありますよ。」
「はい。」

「モデナの大聖堂と言えば、モデナ大聖堂は、イタリア・モデナにある大聖堂である。ヨーロッパで重要なロマネスク建築の一つで、ユネスコの世界遺産に登録されている。モデナ出身の著名なテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの葬儀が行われた場所である。大聖堂建設は1099年に主任建築家ランフランコの指揮下で始められた。大聖堂は、モデナの守護聖人聖ジェミアヌス(イタリア語では聖ジミニャーノ)の墓の役割を持っていた。」

「ボローニャと言えば、ボローニャは、イタリア共和国北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約37万人の基礎自治体(コムーネ)である。エミリア=ロマーニャ州の州都であり、ボローニャ県の県都でもある。アペニン山脈とポー川の間にあるポー川谷に位置する。1088年創立と、西欧最古の大学ボローニャ大学(ラテン語名アルマ・マタル・ストゥディオルム)がある。また、ボローニャはイタリア有数の発展した都市である。」

「イタリアを代表する都市を訪れたついでに、世界遺産にも足を運ぶというぜいたくな楽しみ方ができますよ。」
「そうですね。」

「イタリア、ジェノバについてですが、ジェノバとは、イタリアのみならず、世界史上でも有名な港湾都市ですね。」
「はい。」

「日本人サッカー選手の三浦知良選手が、アジア人初で移籍したプロサッカーチームのある町としても有名ですね。」
「そうなんだ。」

「日本人サッカー選手の三浦知良選手が、アジア人初で移籍したジェノバのプロサッカーチームと言えば、ジェノバとはイタリアのみならず、世界史上でも有名な港湾都市です。日本人サッカー選手の三浦知良選手がアジア人初で移籍したプロサッカーチームのある町としても有名です。1994年にはイタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。」

「旧市街と山の手エリアが混在する独特の景観が魅力ですね。」
「はい。」

「街角の1つ1つに味わいがありますよ。」
「そうなんですか。」

「もちろん世界遺産も存在し、ジェノバから海岸線沿いに東南へ進むと、ポルトヴェーネレというお城と砦で有名な港町がありますよ。」
「はい。」

「ポルトヴェーネレと言えば、ポルトヴェーネレは、イタリア共和国リグーリア州ラ・スペツィア県にある人口4000人の基礎自治体(コムーネ)である。リグーリア海岸に位置するポルトヴェーネレの集落は景勝地として知られ、近隣のチンクエ・テッレや沖合の島々とともに世界遺産に登録されている。」

「海辺の景観を楽しみたい人は、ジェノバから海沿いに観光をして、その足でポルトヴェーネレに出かけるというぜいたくな旅のプランもありますよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア北西部を周遊しようということについてですが、イタリア北西部には、トリノやミラノ、ジェノバのような世界的に知名度の高い都市が点在し、その地域には等しく世界遺産が点在していますよ。」
「そうなんですか。」

「世界遺産だけでは、旅の目的になかなかなりにくいですよ。」
「はい。」

「しかし、旅のついでに回りたいという人にイタリアは最適ですよ。」
「そうなんだ。」

「イタリアは日本人にとって、パスタがある分だけ食事の面でも過ごしやすい国ですよ。」
「はい。」

「長期のイタリア旅行をしていても、食事に飽き飽きしないで済む点も魅力的ですよ。」
「はい。」

「イタリア北西部の都市を回り、そのついでにいろいろな世界遺産も回ってくるといいですよ。」
「わかりました。」

「忘れられない旅行になるはずですよ。」
「はい。」





イタリアの世界遺産と観光名所~サヴォイア王家の王宮群~

「サヴォイア王家の王宮群は、北西イタリアのトリノ近郊にある世界遺産ですよ。」
「はい。」

「サヴォイア王家と言えば、サヴォイア家(伊: Casa di Savoia カーサ・ディ・サヴォイアもしくはサヴォイヤ)は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族であった家系である。1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王国の王家となった。フランス語名からサヴォワ家(Maison de Savoie サヴワ)と呼ばれることもある。」

「イタリアのトリノと言えば、トリノは、イタリア共和国ピエモンテ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約87万人の基礎自治体(コムーネ)である。ピエモンテ州の州都であり、トリノ県の県都。イタリア第4の人口規模を持つ。都市圏の人口は約170万人。一時は100万都市だったが昨今は人口減少が著しい。ミラノに次ぐイタリア第2の工業都市であり、自動車工業の拠点である。」

「イタリア統一運動(リソルジメント)の主力となったサヴォイア王家の王宮および周辺の宮殿のことを指しますよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア統一運動(リソルジメント)と言えば、イタリア統一運動は、19世紀に起こったイタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。イタリア語でリソルジメントと呼ばれ、日本語でもそのまま用いられる。」

「サヴォイア王家とは、サルデーニャの王であり、同時に統一イタリアの王ともなったヴィットーリオ=ネマヌエーレ2世のいる家系ですよ。」
「はい。」

「ヴィットーリオ=ネマヌエーレ2世と言えば、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820年3月14日 - 1878年1月9日)は、サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849年 - 1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861年 - 1878年)である。サルデーニャ王カルロ・アルベルトとトスカーナ大公女マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナの長男としてサルデーニャ王に即位する。父から引き継いだイタリア統一戦争に終止符を打ち、リソルジメントを成し遂げたことから、王国の国父(イタリア語: Padre della Patria)と呼ばれた。」

「サルデーニャと言えば、サルデーニャは、イタリア半島西方、コリシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島である。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。周辺の島を含めて、サルデーニャ自治州を構成している。この州は、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はカリャリ(カリアリ)。」

「元々保有していた領地であるピエモンテ地方付近にサヴォイア(後に大部分をフランスに割譲して読み方がサヴォワとなる)がありますよ。」
「はい。」

「サヴォイア(後に大部分をフランスに割譲して読み方がサヴォワとなる)と言えば、サヴォイアは、北西イタリアのトリノ近郊にある世界遺産で、イタリア統一運動(リソルジメント)の主力となったサヴォイア王家の王宮および周辺の宮殿のことを指します。サヴォイア王家とは、サルデーニャの王であり、同時に統一イタリアの王ともなったヴィットーリオ=ネマヌエーレ2世のいる家系。元々保有していた領地であるピエモンテ地方付近にサヴォイア(後に大部分をフランスに割譲して読み方がサヴォワとなる)があり、そこがサルデーニャ王国の中心だったことからサヴォイア王家と呼ばれている。現行のイタリア共和国の首都はローマですが、統一されたばかりのイタリア王国時代はトリノが首都でした。」

「ピエモンテ地方と言えば、ピエモンテ州は、イタリア共和国北西部に位置する州である。州都はトリノ。中世から近世にかけてはフランス系貴族のサヴォイア家によって支配された(サヴォイア公国)。特産品としてワインやトリュフがある。イタリアを代表するワインの産地であり、バローロ、バルバレスコ、アスティなどの銘柄を抱える。トリュフは、その中でも貴重な白トリュフが有名。」

「そこがサルデーニャ王国の中心だったことから、サヴォイア王家と呼ばれていますよ。」
「そうなんだ。」

「サルデーニャ王国と言えば、サルデーニャ王国は、18世紀から19世紀にかけて存在したヨーロッパの国家である。領土は現在のイタリアとフランスにまたがり、サルデーニャ島、ピエモンテ、サヴァワとニースを統治した。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。」

「現行のイタリア共和国の首都はローマですね。」
「そうですね。」

「現行のイタリア共和国の首都ローマと言えば、ローマは、イタリアの首都である。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。」

「統一されたばかりのイタリア王国時代は、トリノが首都でしたよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア王国と言えば、イタリア王国は、現在のイタリア共和国の前身となる王国である。1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。」

「王宮群を構成するそれぞれの建築物について、簡単に解説します。」
「お願いします。」

「王宮・庭園についてですが、トリノ市街地の中心部にあるカステッロ広場にある王宮ですよ。」
「はい。」

「トリノ市街地の中心部にあるカステッロ広場と言えば、カステッロ広場は、イタリア北西部、ピエモンテ州の都市トリノの中心部にある広場である。トリノ王宮、トリノ大聖堂、マダマ宮殿など、トリノを代表する歴史的建造物に囲まれる。」

「シンメトリーのデザインで、王宮というより豪華な役所みたいな風貌ですよ。」
「そうなんですか。」

「設計者は、アスカニオ・ヴィトッツィとカルロ・モレッロですよ。」
「はい。」

「カルロ・モレッロと言えば、サヴォイア王家の王宮及びその庭園は、トリノ市内中心部カステッロ広場に面し、左右対称の優美な建築物である。16世紀から17世紀に建てられた。1584年から1596年にはトリノ都市計画を行ったアスカニオ・ヴィトッツィが設計及び建築を開始し、その後1658年にカルロ・モレッロの設計により完成した。」

「アスカニオ・ヴィトッツィと言えば、サヴォイア王家の王宮及びその庭園は、トリノ市内中心部カステッロ広場に面し、左右対称の優美な建築物である。16世紀から17世紀に建てられた。1584年から1596年にはトリノ都市計画を行ったアスカニオ・ヴィトッツィが設計及び建築を開始し、その後1658年にカルロ・モレッロの設計により完成した。」

「王宮裏手の庭園を造園したのは、アンドレ・ル・ノートルですよ。」
「はい。」

「アンドレ・ル・ノートルと言えば、アンドレ・ル・ノートル(1613年3月12日 - 1700年9月15日)はフランスの造園家である。 パリのテュイルリー庭園、ヴォー=ル=ヴィコント城の庭園、ヴェルサイユ宮殿の庭園などを設計し、フランス式庭園の様式を完成させた。」

「このアンドレ・ル・ノートルは、庭園の設計者として非常に有名ですよ。」
「そうなんだ。」

「フランス:ヴェルサイユ宮殿の庭園を造ったことでも知られていますよ。」
「そうなんですか。」

「建てられたのは、16世紀から17世紀頃と言われていますよ。」
「はい。」

「マダマ宮殿についてですが、古代、ローマ帝国の砦として使用されていた場所に建っていますよ。」
「はい。」

「王宮と同じカステッロ広場に位置していますよ。」
「そうなんだ。」

「その後、幾度となく修築・改築がなされましたよ。」
「はい。」

「18世紀にフィリッポ・ユヴァッラが、現在の形に造りかえましたよ。」
「はい。」

「フィリッポ・ユヴァッラと言えば、フィリッポ・ユヴァッラ(1678年3月7日-1736年1月31日)は、イタリアの建築家である。18世紀のもっとも偉大なイタリアの建築家であり、かつ輝かしいとまで評された図案家。メッシーナの銀細工師の家庭で生まれた。1703年か1704年から1714年にかけて、ローマのフォンターナのもとで修業をつみ、はじめ舞台設計者としての名声を得た。」

「フィリッポ・ユヴァッラは、教会建築の世界で知られる建築家ですね。」
「そうなんだ。」

「バロック様式の教会・礼拝堂をいくつも残した人物ですよ。」
「はい。」

「トリノオリンピックでは、このマダマ宮殿がIOC(国際オリンピック委員会)のラウンジとして使用されましたよ。」
「そうなんですか。」

「マダマ宮殿と言えば、マダマ宮殿は、イタリア北西部、ピエモンテ州の都市トリノにある宮殿である。トリノ王宮とともにカステッロ広場に面する。古代ローマ時代の砦があった場所に、14世紀にアカイア家の宮殿が建てられ、16世紀にファサードが完成。17世紀にサボイア公国ビットリオ=アメデオ1世の未亡人で後に摂政を務めたマリー=クリスティーヌの居城になった。現在は中世ピエモンテ地方の美術工芸や家具調度品を展示する博物館になっている。1997年、「サボイア王家の王宮群」の名称で、世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「カリャーノ宮殿についてですが、レンガ造りの建物で、19世紀前半まではサヴォイア王家の宮殿として使われましたよ。」
「そうなんですか。」

「カリャーノ宮殿と言えば、カリャーノ宮殿は、レンガ造りの建物で、19世紀前半まではサヴォイア王家の宮殿として使われました。その後、19世紀の後半からはサルデーニャ王国議会の議事堂として使用。現在は博物館になっています。」

「その後、19世紀の後半からはサルデーニャ王国議会の議事堂として使用されましたよ。」
「はい。」

「サルデーニャ王国議会と言えば、国立リソルジメント博物館の展示の中ほどに、1861年初めて統一イタリア国家の議会が開かれた議事堂(1848年からサルデーニャ王国議会)の実物を見ることができる。この建物はそもそも国会なのである。」

「現在は博物館になっていますよ。」
「そうなんだ。」

「ヴァレンティーノ城についてですが、サヴォイア公エマヌエーレ=フィリベルトが16世紀に別荘として購入した城ですよ。(当時はまだサルデーニャ王国ではなく、前身のサヴォイア公国)」
「はい。」

「サヴォイア公と言えば、サヴォイア公は、1418年から1860年までのサヴォイア家によるサヴォワ統治の際に用いられた世襲の君主号である。現在ではサヴォイア家の儀礼称号の一つとなっている。」

「サヴォイア公エマヌエーレ=フィリベルトと言えば、エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(1528年7月8日シャンベリ - 1580年8月30日トリノ)は、サヴォイア公(在位:1553年 - 1580年)、ピエモンテ公、アスティ伯(在位:1538年 - 1580年)、アオスタ伯、モーリエンヌ伯、ニース伯である。さらに、キプロス王、エルサレム王である。通称「鉄頭」(Testa di Ferro)。フランス語名エマニュエル・フィリベール・ド・サヴォワ(Emmanuel Philibert de Savoie)。」

「サルデーニャ王国の前身のサヴォイア公国と言えば、サヴォイア公国またはサヴォワ公国は、サルデーニャ王国の前身となった公国である。現在のイタリア北西部(現ヴァッレ・ダオスタ州、ピエモンテ州)とフランス東部サヴォワ地方や現アルプ=マリティーム県、ジュネーヴ(現スイス)も含んだ。首都はサヴォイア伯領の頃からシャンベリ(現フランス)であったが、1563年にトリノに遷都された。」

「ヴァレンティーノ城と言えば、ヴァレンティーノ城は、サヴォイア公エマヌエーレ=フィリベルトが16世紀に別荘として購入した城である。(当時はまだサルデーニャ王国ではなく、前身のサヴォイア公国)このエマヌエーレ=フィリベルトは、他にもピエモンテ公・アスティ伯・ニース伯・キプロス王・エルサレム王などを歴任した人物。エマヌエーレ=フィリベルトは神聖ローマ帝国のカール5世の命を受けて、軍人として対フランス戦のために各地を転戦しました。一度はスペイン軍の将軍代理として、フランドル地方におけるスペイン軍最高司令官にも就任しています。」

「サルデーニャ王国と言えば、サルデーニャ王国は、18世紀から19世紀にかけて存在したヨーロッパの国家である。領土は現在のイタリアとフランスにまたがり、サルデーニャ島、ピエモンテ、サヴァワとニースを統治した。その存続期間の大半において、王国の本拠はサルデーニャ島ではなく大陸のピエモンテにあり、首都はトリノであった。」

「このエマヌエーレ=フィリベルトは、他にもピエモンテ公・アスティ伯・ニース伯・キプロス王・エルサレム王などを歴任した人物ですよ。」
「そうなんだ。」

「エルサレム王と言えば、ゴドフロワはエルサレムを拠点に残存するムスリム勢力の駆逐や農村の襲撃を行ったが、1100年にエルサレムで没した。弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。」

「キプロス王と言えば、ジャック2世(1438/39/40年 ニコシア - 1473年10月3日ファマグスタ)は、キプロス王、名目上のエルサレム王、キリキア・アルメニア王(在位1464年 - 1473年)である。私生児ジャック、大司教ジャックの異名で呼ばれた。」

「ピエモンテ公と言えば、ピエモンテ公は、サヴォイア家がピエモンテを統治した際に用いた称号であったが、後には王位の法定推定相続人の称号となった。ピエモンテは元来、サヴォイア家が統治するサヴォイア伯国が領主として統治した附属領であり、その支配はトンマーゾ1世(イタリア語版)に始まる。」

「エマヌエーレ=フィリベルトは、神聖ローマ帝国のカール5世の命を受けて、軍人として対フランス戦のために各地を転戦しましたよ。」
「はい。」

「神聖ローマ帝国と言えば、神聖ローマ帝国(800年/962年 - 1806年)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家である。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」である。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。」

「神聖ローマ帝国のカール5世(スペイン国王カルロス1世と同一人物)と言えば、カール5世(1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)であり、スペイン国王(在位:1516年 -1556年)としてはカルロス1世と呼ばれる。」

「一度はスペイン軍の将軍代理として、フランドル地方におけるスペイン軍最高司令官にも就任していますよ。(当時はスペインと神聖ローマ帝国が同君連合であり、フランスを挟撃する形で戦っていました)」
「はい。」

「サヴォイア王家に伝わる「エマヌエーレ」という名前は、このエマヌエーレ=フィリベルトから始まったものですよ。」
「そうなんだ。」

「同君連合とは2つ以上の地域において同一の国王が兼任となっている場合に、その2地域が必然的に連合を組む関係になりますよ。」
「はい。」

「その状態が同君連合であり、同一の君主を持つ国同士の連合という意味ですよ。」
「そうなんだ。」

「16世紀頃は、神聖ローマ帝国とスペイン王国は、いずれもハプスブルク家が王位を継承していますよ。」
「はい。」

「ハプスブルク家と言えば、ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系である。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。」

「スペイン王国と言えば、スペイン、スペイン国またはスペイン王国は、ヨーロッパ南西部のイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家である。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。」

「この時代の神聖ローマ皇帝カール5世とスペイン国王カルロス1世は、同一人物ですよ。」
「そうなんですか。」

「カール5世の次代は、神聖ローマ皇帝が弟のフェルディナント1世、スペイン王国が息子のフェリペ2世でしたよ。」
「はい。」

「カール5世の次代のスペイン王国である息子のフェリペ2世と言えば、フェリペ2世(1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国(=スペイン)の国王(在位:1556年 - 1598年)である。イングランド女王メアリー1世と結婚期間中共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。また1580年からはフィリペ1世としてポルトガル国王も兼ねた。」

「カール5世の次代の神聖ローマ皇帝である弟のフェルディナント1世と言えば、フェルディナント1世(1503年3月10日 -1564年7月25日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1556年 - 1564年)、オーストリア大公、ボヘミア王(在位:1526年 - 1564年)、ハンガリー王(在位:同)である。」

「息子のスペイン王フェリペ2世は、スペインを強大な覇権国家へと成長させ、“太陽の沈まない国”と称される一大王国を築いたことで知られていますよ。」
「そうなんだ。」

「モンカリエーリ城についてですが、中世に建てられた古城で、後に修築・改築が施されて現在の形になりましたよ。」
「そうなんだ。」

「モンカリエーリ城と言えば、モンカリエーリ城は、ユネスコの世界遺産「サヴォイア王家の王宮群」の一部として指定されている。元々の中世の古城を、徐々に拡張する形で発展。アンドレア・コスタグータ及びアメデオ・ディ・カステラモンテの設計した塔も現存。カルロ・ディ・カステラモンテも参加し、その後徐々に拡張された。」

「リヴォリ城についてですが、14世紀から存在する軍事用の城ですよ。」
「はい。」

「リヴォリ城と言えば、リヴォリ城は、ユネスコの世界遺産「サヴォイア王家の王宮群」の一部として指定されている。スーザ谷に向かう戦略的な場所であるリーヴォリに位置する14世紀からのサヴォイア家の城。15世紀以降、居住用の宮殿に改築された。さらにその後、ミケランジェロ・ガローヴェが改築を開始し、フィリッポ・ユヴァッラがスペルガ寺院とを視覚的に結ぶ形で設計した。現在、現代美術館が併設されている。」

「15世紀以降は居住用へと改築されましたよ。」
「はい。」

「現在は、すぐ横に美術館が建てられていますよ。」
「そうなんだ。」

「カッチャ宮殿・ストゥピニージ宮殿についてですが、フィリッポ・ユヴァッラが設計した、狩猟などの余暇に用いる城ですよ。」
「はい。」

「ストゥピニージ宮殿と言えば、カッチャ宮殿及びストゥピニージ宮殿は、1729年にヴィットリオ・アメデオ2世がフィリッポ・ユヴァッラに狩猟用の宮殿の設計を依頼。その後、ベネデット・アルフィエリらが拡張。屋根の頂上にフランチェスコ・ラダッテの鹿のモニュメントが設置されている。聖アンデレ十字(サンタンデレ、聖アンデレの十字)の形に建物が左右に延びている。現在、美術品及び歴史的家具博物館が内部に併設されている。トリノ市外ニケリーノにある。」

「カッチャ宮殿と言えば、カッチャ宮殿及びストゥピニージ宮殿は、1729年にヴィットリオ・アメデオ2世がフィリッポ・ユヴァッラに狩猟用の宮殿の設計を依頼。その後、ベネデット・アルフィエリらが拡張。屋根の頂上にフランチェスコ・ラダッテの鹿のモニュメントが設置されている。聖アンデレ十字(サンタンデレ、聖アンデレの十字)の形に建物が左右に延びている。現在、美術品及び歴史的家具博物館が内部に併設されている。トリノ市外ニケリーノにある。」

「フィリッポ・ユヴァッラと言えば、フィリッポ・ユヴァッラ(1678年3月7日-1736年1月31日)は、イタリアの建築家である。18世紀のもっとも偉大なイタリアの建築家であり、かつ輝かしいとまで評された図案家。メッシーナの銀細工師の家庭で生まれた。1703年か1704年から1714年にかけて、ローマのフォンターナのもとで修業をつみ、はじめ舞台設計者としての名声を得た。」

「後に拡張されて現在の形状になりましたよ。」
「はい。」

「現在は美術館・博物館となっていますよ。」
「そうなんだ。」

「サヴォイア王家についてですが、皆さんは現在のイタリアが「イタリア共和国」であって、「イタリア王国」ではないことをご存知と思います。」
「そうですね。」

「かの偉大な国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の後、イタリア王家に何があったのでしょうか?」
「わかりません。」

「初代イタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と言えば、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820年3月14日 - 1878年1月9日)は、サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849年 - 1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861年 - 1878年)である。サルデーニャ王カルロ・アルベルトとトスカーナ大公女マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナの長男としてサルデーニャ王に即位する。父から引き継いだイタリア統一戦争に終止符を打ち、リソルジメントを成し遂げたことから、王国の国父(イタリア語: Padre della Patria)と呼ばれた。」

「初代イタリア国王のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世についてですが、彼にまつわるお話は、トップページを参照してください。イタリア統一の道筋と、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の人徳・偉大さの分かるエピソードを掲載していますよ。」
「わかりました。」

「2代イタリア国王のウンベルト1世についてですが、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の子ですね。」
「はい。」

「2代イタリア国王ウンベルト1世(ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の子)と言えば、ウンベルト1世(1844年3月14日 - 1900年7月29日)は、イタリア王国の第2代国王(在位:1878年1月9日 - 1900年7月29日)。父はイタリア王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世。母は神聖ローマ皇帝レオポルト2世の孫娘で、ロンバルト=ヴェネト副王ラニエーリの娘マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ。」

「イタリア王国は、統一こそされたものの、南部の貧困がなかなか解消しないなどの問題を抱えていましたよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア王国では、パンの価格高騰などに対するデモが連日行われるようになりましたよ。」
「はい。」

「ウンベルト1世はイタリアの国力増大にばかり目がいく国王であり、内政への対処がどうも後手後手に回っていたようですね。」
「そうなんだ。」

「ウンベルト1世は、デモに対して発砲して300人以上の死傷者を出した将校に「秩序回復の功労者」として勲章授与するなどの行為で、民心を失っていきましたよ。」
「はい。」

「在位中に幾度も暗殺未遂があるほどの不人気だったウンベルト1世は、1900年の8月ついにイタリア系アメリカ人の青年に射殺されますよ。」
「そうなんだ。」

「これにより、在位中に暗殺された唯一のイタリア国王となりましたよ。」
「はい。」

「3代イタリア国王のヴィットーリオ=エマヌエーレ3世についてですが、エマヌエーレ3世は若い頃、議会に多くをゆだねて政務を執ることはほとんどない国王として知られていましたよ。」
「はい。」

「3代イタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世と言えば、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869年11月11日 - 1947年12月28日)は、イタリア王国の第3代国王(在位:1900年 - 1946年)、エチオピア皇帝(在位:1936年 -1941年)、アルバニア王(在位:1939年 - 1943年)、ガーター騎士団団員、マルタ騎士団団員、金羊毛騎士団団員。」

「これは父王が暗殺されたことから、民衆の意見を重視する選択をしたためだと考えられていますよ。」
「そうなんだ。」

「しかし、徐々に議会政治に不満を募らせたヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、第一次世界大戦に参戦するか否かをめぐる議論の中で、ついに国王の意志で議会決定を拒絶するに至りましたよ。」
「はい。」

「これは、第一次大戦における中立を望む世論の後押しを受けて、参戦を主張するサランドラ首相の解任決議がなされたものでしたよ。」
「はい。」

「第一次大戦への参戦を主張したサランドラ首相と言えば、アントーニオ・サランドラ(1853年 - 1931年)は、イタリアの政治家である。1886年より代議士、1902年にはローマ大学の行政法の教授となる。ソンニーノとともに自由主義右派の立場からジョリッティに対抗。14年首相となり、第一次世界大戦に初め中立を宣言したが、極秘にロンドン条約を締結、参戦論の高揚を背景に15年5月英仏側に立っての参戦を強行した。」

「国王の拒絶で一転、第一次大戦に三国協商側として参戦しましたよ。」
「はい。」

「第一次大戦の三国協商と言えば、三国協商とは、19世紀末から20世紀初頭においてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉である。英仏露協商ともいい、独墺伊(三国)同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。また、この関係に日本がかかわり、「四国協商」または「日英仏露協商」という。」

「結果、協商国が勝利して、当時“未回収のイタリア”と呼ばれていた地域(南チロル・トリエステなど)を併合しましたよ。」
「はい。」

「トリエステと言えば、トリエステは、イタリア共和国北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約20万人の基礎自治体(コムーネ)である。フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都であり、トリエステ自治県の県都でもある。アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置している。」

「南チロルと言えば、チロル、ティロールは、ヨーロッパ中部にある、オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部の地域である。北チロルと東チロルは、オーストリアのチロル州に、残る地域は1918年からイタリアに帰属している。そのイタリア側の地域のうち、南チロルはボルツァーノ自治県として、また「外国のチロル」の異名をもつトレンティーノはトレント自治県として、それぞれ独立の県となっている。この2県を合わせてトレンティーノ=アルト・アディジェ特別自治州を構成する。」

「当時“未回収のイタリア”と呼ばれていた地域(南チロル・トリエステなど)と言えば、イタリア王国は、第一次大戦に三国協商側として参戦しました。結果、協商国が勝利して、当時“未回収のイタリア”と呼ばれていた地域(南チロル・トリエステなど)を併合。」

「結果を出したことで国民の支持も取り付け、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世の立場は保たれましたよ。」
「そうなんだ。」

「しかし、第一次大戦の戦費は重くのしかかりましたよ。」
「そうでしょうね。」

「“未回収のイタリア”とされる地域もダルマチア・フィウメなどの併合は叶いませんでしたよ。」
「はい。」

「フィウメと言えば、リエカは、クロアチア北西部、アドリア海に面する港湾都市である。造船・石油精製などの工業が発達。イタリア名、フィウメ。」

「ダルマチアと言えば、ダルマチアとは、クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のことである。中央クロアチア、ダルマチア地方、スラヴォニア地方、イストリア地方の4地方で、現在のクロアチア共和国が構成されている。」

「当時“未回収のイタリア”と呼ばれていた地域(南チロル・トリエステなど)と言えば、イタリア王国は、第一次大戦に三国協商側として参戦しました。結果、協商国が勝利して、当時“未回収のイタリア”と呼ばれていた地域(南チロル・トリエステなど)を併合。」

「そのため、国民の生活はやはり安定しませんでしたよ。」
「そうなんだ。」

「この国民、特に貧困層の不満は、やがて無政府主義や社会主義革命への期待へと変わりかねず、王族・貴族・富裕層にとっては決して良い状況ではありませんよ。」
「はい。」

「事実、ロシアでは既にソビエト連邦が成立しており、民衆の爆発的な不満が社会主義革命を招くことが証明されている時代でしたよ。」
「そうなんだ。」

「ここで、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党への接近を選びましたよ。」
「はい。」

「ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党と言えば、ファシズムとは、イタリアのベニート・ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想や政治運動、および1922年から1942年までの政権獲得時に行った実践や体制の総称である。」

「ベニート・ムッソリーニと言えば、ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、教師、軍人である。第40代イタリア王国首相。イタリア社会党で活躍したのち追放され、ファシズム理論を独自に構築し、一党独裁制に基づいた統治を確立し実践した。」

「国王とムッソリーニは、共同で元帥となってイタリアの全権を掌握、軍事的な覇権主義で植民地を獲得し、国力を回復させようと試みましたよ。」
「はい。」

「しかし、戦力の整わない状況で強引に始めた第二次世界大戦では、初期から苦戦が続きましたよ。(日本やドイツのように序盤のうちは快進撃を続けるということさえありませんでした)」
「そうなんだ。」

「植民地を広げようとアフリカに進軍して追い返され、ドイツが止めるのも聞かずにバルカン半島に進出してギリシア軍に包囲され、といった状況だったようですよ。(このギリシアで孤立したイタリア軍を救援していたために、ドイツの対ソ攻撃開始が遅れ、そのせいで冬が来る前にソ連を攻めきることが出来ず、スターリングラードで大敗を喫したとさえ言われています)」
「そうなんですか。」

「イタリアはリビアなどの植民地を失い、連合国軍がシチリアに上陸してきましたよ。」
「はい。」

「シチリアと言えば、シチリア島は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島である。地中海最大の島である。周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。」

「イタリアの植民地だったリビアと言えば、20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。イタリアの植民地だったリビアであるが、日独と同盟し第二次世界大戦で敗北したイタリアは、植民地を失い、リビアは独立していくことになる。」

「1943年にはローマ空襲が始まり、敗色が決定的になりますよ。」
「そうなんだ。」

「現行のイタリア共和国の首都ローマと言えば、ローマは、イタリアの首都である。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。」

「ムッソリーニは政権を追われ、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は南部へ逃れて連合国と休戦交渉を開始しましたよ。」
「はい。」

「その後は、ナチス=ドイツが監禁されていたムッソリーニを救出して北イタリアにイタリア社会共和国(RSI)を樹立、イタリア南部はイタリア王国のまま休戦を模索するという分裂状態となりましたよ。」
「そうなんですか。」

「イタリア社会共和国(RSI)と言えば、イタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana、RSI)は、1943年9月から1945年4月までローマ以北のイタリアに存在した国家である。後の戦勝国となる連合軍各国からはイタリアを治める正当な政府と認められなかった事もあり、ガルダ湖湖畔の町サロに政府をおいたことからサロ共和国(Repubblica di Salo)とも呼ばれる。イタリア社会共和国は北部イタリアを支配する国家として2年近く体制を維持し、第2のイタリア・ファシズム政権として機能した。ただし実態はドイツの傀儡政権であり、他のドイツ占領地同様親衛隊やドイツ国防軍の強い統制を受けた。」

「ヒトラーは、降伏したイタリア王国を激しく非難し、南イタリアに対する攻撃を開始しましたよ。」
「はい。」

「イタリア半島はファシストによるイタリア社会共和国(RSI)と南部のイタリア王国との間で内線状態にまで発展しますよ。」
「はい。」

「この内戦の中で、失意のヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は、エジプトへ隠遁しましたよ。」
「そうなんだ。」

「摂政として息子のウンベルト2世がイタリア王国を引き継ぎましたよ。」
「はい。」

「イタリア王国を引き継いだ4代イタリア国王ウンベルト2世と言えば、ウンベルト2世(1904年9月15日 - 1983年3月18日)は、イタリア王国の第4代にして最後の国王(在位:1946年5月9日 - 6月12日)である。即位時に父王が得たアルバニア王位とエチオピア帝位は放棄しているため、両位は継承していない。金羊毛騎士団団員、エルサレム王、サルデーニャ国王、ピエモンテ公などを称号として持つ。第二次世界大戦後、国民投票により廃位されて国外追放となり、ウンベルト・ビアンカマーノから続いて来た王家としてのサヴォイア家は終焉を迎えた。」

「4代イタリア国王のウンベルト2世についてですが、摂政となったウンベルトは、自由イタリア軍を組織してムッソリーニ政権と戦い続け、連合国軍の協力もあって、最終的に北イタリアを解放しましたよ。」
「はい。」

「自由イタリア軍と言えば、「自由イタリア軍団」(南イタリア王国が一番最初に編成した陸軍隊)の総兵力は22,000人です。」

「こうして、正式にイタリア王国は第二次世界大戦から離脱しましたよ。」
「そうなんだ。」

「こうした連合国への協力的姿勢が評価されたこともあって、後の国際連合では敵国条項にイタリアが入ることはありませんでしたよ。(ちなみに日本とドイツは2011年現在も、まだ国連の敵国条項に入っています。)」
「そうなんですか。」

「戦後、王家がファシスト党に荷担したことを批判する声が大きくなり、王制存続の可否を決める国民投票が行われることになりましたよ。」
「はい。」

「ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党と言えば、ファシズムとは、イタリアのベニート・ムッソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想や政治運動、および1922年から1942年までの政権獲得時に行った実践や体制の総称である。」

「この時点では、まだ正式な王位はヴィットーリオ=エマヌエーレ3世になりましたよ。」
「はい。」

「失政続きの国王では王制廃止に票が流れるのは明らかでしたよ。」
「そうなんだ。」

「ここでようやく、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世が正式に退位することになり、ウンベルト2世がイタリア国王に即位したのですよ。」
「はい。」

「しかし、それでも国民投票の結果は王制廃止54%・王制存続47%。わずかの差で廃止が決定し、ウンベルト2世は退位しましたよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア王国を引き継いだ4代イタリア国王ウンベルト2世と言えば、ウンベルト2世(1904年9月15日 - 1983年3月18日)は、イタリア王国の第4代にして最後の国王(在位:1946年5月9日 - 6月12日)である。即位時に父王が得たアルバニア王位とエチオピア帝位は放棄しているため、両位は継承していない。金羊毛騎士団団員、エルサレム王、サルデーニャ国王、ピエモンテ公などを称号として持つ。第二次世界大戦後、国民投票により廃位されて国外追放となり、ウンベルト・ビアンカマーノから続いて来た王家としてのサヴォイア家は終焉を迎えた。」

「サボイア王家の国外追放が決まりましたよ。」
「はい。」

「ウンベルト2世の国王在位期間は1946年の5月9日から6月12日、実に1ヶ月あまりという短さでしたよ。」
「そうなんですか。」

「この後、王家はポルトガルに亡命しましたよ。」
「はい。」

「サヴォイア家一族のイタリア入国禁止が解かれたのは、2002年のことでしたよ。」
「そうなんだ。」

「サヴォイア(後に大部分をフランスに割譲して読み方がサヴォワとなる)と言えば、サヴォイアは、北西イタリアのトリノ近郊にある世界遺産で、イタリア統一運動(リソルジメント)の主力となったサヴォイア王家の王宮および周辺の宮殿のことを指します。サヴォイア王家とは、サルデーニャの王であり、同時に統一イタリアの王ともなったヴィットーリオ=ネマヌエーレ2世のいる家系。元々保有していた領地であるピエモンテ地方付近にサヴォイア(後に大部分をフランスに割譲して読み方がサヴォワとなる)があり、そこがサルデーニャ王国の中心だったことからサヴォイア王家と呼ばれている。現行のイタリア共和国の首都はローマですが、統一されたばかりのイタリア王国時代はトリノが首都でした。」





イタリアの世界遺産と観光名所~ヴァル・ドルチャの丘陵地帯~

「ヴァル・ドルチャとは、イタリア中部のトスカーナ州にある田園地帯のことですよ。」
「はい。」

「イタリア中部のトスカーナ州と言えば、トスカーナ州(伊: Toscana)は、イタリア共和国中部に位置する州である。州都はフィレンツェ。イタリア・ルネッサンスの中心地となったフィレンツェをはじめ、ピサ、シエーナなど多くの古都を擁している。文化遺産や自然景観に恵まれ、多くの観光客が訪れる。」

「ヴァル・ドルチャと言えば、ヴァル・ドルチャ (Val d'Orcia)は、 トスカーナ州シエナ県にある広い谷で、北東にはモンテ・アミアータとウンブリア州との州境がある。ヴァル・ドルチャとは、「オルチャの谷」と言う意味を表し、オルチャ渓谷とも訳される。」

「ヴァルというのは、谷のことを指していますよ。」
「はい。」

「つまりヴァル・ドルチャとは「ドルチャの渓谷」という意味になりますね。」
「そうなんだ。」

「イタリアの広大な丘陵の中には、5つのコムーネ(自治都市)があり、自然と街が一緒にこの風景を作っていますよ。」
「はい。」

「コムーネ(自治都市)と言えば、コムーネ(伊: comune)は、イタリア語で「共同体」を指す語であり、現代ではイタリアの自治体の最小単位(基礎自治体)である。また、スイスのイタリア語圏でも基礎自治体をコムーネと呼ぶ。イタリアの自治体には、日本の市町村のような規模による区別はなく、人口100万人を超えるナポリのような都市も、バローロのような1,000人以下の村もすべて「コムーネ」である。」

「その風景はとても美しく、2004年にイタリアの世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」

「田園地帯ということで、ここではワイン用のブドウや穀物類、オリーブなどが栽培されていますよ。」
「そうなんだ。」

「しかし、昔からこのように農耕が行われていたわけではありませんよ。」
「そうなんですか。」

「元々、この土地の土壌は耕作には向いていないものでしたよ。」
「はい。」

「14世紀に入って、シエーナ共和国に支配されるようになってから事態は変わりますよ。」
「どういうことですか。」

「シエーナ共和国と言えば、シエーナ共和国(Repubblica di Siena)は、中世のイタリア半島に存在した国家である。シエーナの都市国家から興り、トスカーナ地方の覇権をフィレンツェ(フィレンツェ共和国およびその後身となるメディチ家の国家)と争った。」

「シエーナ共和国は、イタリアのヴァル・ドルチャを農耕地として開発し始めましたよ。」
「はい。」

「シエーナ共和国による土地開発は、ヴァル・ドルチャを機能的で美しい土地へと変化させていきましたよ。」
「はい。」

「そして現在のイタリア世界遺産のヴァル・ドルチャの形になるまでは、約300年の年月を要することになりますよ。」
「長期間かかったんですね。」

「世界遺産のヴァル・ドルチャの丘陵地帯と、そこにぽつぽつと立っている糸杉はとても有名ですよ。」
「はい。」

「皆さんも、テレビやポストカードなどで一度は見たことがあるのではないでしょうか。」
「はい。」

「延々と伸びていく緑と、街にある建物のクリーム色は、一度見たら忘れられませんね。」
「そうなんだ。」

「この世界遺産の景色は、現代を生きる私たちに感動を与えてくれますよ。」
「はい。」

「それは、中世の人々にとっても同じでしたよ。」
「そうなんだ。」

「中世ヨーロッパの時代に起こった革新的な文化運動、ルネッサンス期の画家たちの多くが、このヴァル・ドルチャに目を奪われたそうですよ。」
「はい。」

「中世ヨーロッパの時代に起こった革新的な文化運動ルネッサンスと言えば、ルネサンスは、「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。」

「実際、ピエトロ・ロレンツェッティやジョヴァンニ・ディ・パオロなどがこの地を絵に残していますよ。」
「はい。」

「ジョヴァンニ・ディ・パオロと言えば、ジョヴァンニ・ディ・パオロ・ディ・グラツィア(1399年or 1403年 - 1482年)は、イタリアのシエナ派の画家である。タッデーオ・ディ・バルトーロの徒弟をしていたようで、その後、たくさんの絵画、写本(ダンテを含む)の挿絵を描いた。」

「ピエトロ・ロレンツェッティと言えば、ピエトロ・ロレンツェッティ(1280年頃 - 1348年)はイタリアの画家である。おおよそ1306年から1345年にかけて活動した。ピエトロ・ロレンツェッティはシエナで生まれ、その地で没した。ジョヴァンニ・ピサーノ、ジョットの影響を受け、アッシジでは、シモーネ・マルティーニと一緒に働いた。弟のアンブロージョ・ロレンツェッティとともに、シエナ派に自然主義を紹介した。3次元的かつ空間的な配列を試みた兄弟の作品は、ルネサンス美術の先駆けとも言える。」

「ヴァル・ドルチャには大きなホテルなどはありませんよ。」
「そうなんですか。」

「しかし、周りには5つの街があるのでそこで宿を探しがてら、ショッピングも良いかも知れませんね。」
「はい。」

「おススメの観光シーズンは5月~7月ですよ。」
「そうなんだ。」

「このシーズンは、新緑がとても美しいですよ。」
「はい。」

「この時期、トスカーナ地方の気候は比較的安定していますよ。」
「そうなんだ。」

「ヴァル・ドルチャへは、首都ローマから電車で約2時間半、キウジ駅で降りますよ。」
「はい。」

「キウジ駅と言えば、モンテプルチャーノには国鉄駅がありません。一番近いFS(イタリア国鉄)の駅は キウージ・キャンチャーノ・テルメ駅(ローマとフィレンツェの中間にある駅)のようです。」

「現行のイタリア共和国の首都ローマと言えば、ローマは、イタリアの首都である。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。」

「そこから、バスなどを使って行く方法が一般的ですね。」
「はい。」

「さらに、シーズン中にはヴァル・ドルチャ列車というものも運行していますよ。」
「はい。」

「ヴァル・ドルチャ列車と言えば、『ヴァル・ドルチャ列車 Ferrovia Val d'Orcia』と言う、画期的な観光周遊列車が走っています。シーズンに何度か予約制で運行しており、シエナ駅、ブオンコンヴェント駅などを通過、ヴァルドルチャ一帯からモンテアミアータの方まで所々で途中下車しつつ、一周すると言うもの。停車場所では緑の中を散歩したり、中世の町で食事をしたりできます。」

「いつくかの駅を経由して、ヴァル・ドルチャを周遊してくれますよ。」
「そうなんだ。」

「是非、有効活用してください。」
「わかりました。」





イタリアの世界遺産と観光名所~クレスピ・ダッダ~

「ミラノから東に約30km、イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオと言うコムーネにクレスピ・ダッダという町がありますよ。」
「はい。」

「ロンバルディア州と言えば、ロンバルディア州(イタリア語:Lombardia)は、イタリア経エア国北西部に位置する州である。州都はイタリア第二の都市であるミラノ。イタリア最大の人口(約1000万人)を擁する州であり、これはイタリアの人口の1/6にあたる。また、イタリアの国内総生産(GDP)の1/5を生産する。」

「イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県と言えば、ベルガモ県(イタリア語: Provincia di Bergamo)は、イタリア共和国ロンバルディア州に属する県の一つである。県都はベルガモ。ロンバルディア州のほぼ中央部に所在する。県都ベルガモは、ブレシアの西北西約46km、州都ミラノの東北東約46km、コモの東南東約47kmに位置する。」

「イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオと言うコムーネと言えば、カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオ(Capriate San Gervasio)は、人口7,257人のイタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県のコムーネの一つである。」

「コムーネ(自治都市)と言えば、コムーネ(伊: comune)は、イタリア語で「共同体」を指す語であり、現代ではイタリアの自治体の最小単位(基礎自治体)である。また、スイスのイタリア語圏でも基礎自治体をコムーネと呼ぶ。イタリアの自治体には、日本の市町村のような規模による区別はなく、人口100万人を超えるナポリのような都市も、バローロのような1,000人以下の村もすべて「コムーネ」である。」

「クレスピ・ダッダと言えば、クレスピ・ダッダは、イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオというコムーネにある、労働者のための町の名前である。19世紀にクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピにより労働者のための理想郷としてアッダ川とブレンブロ川が合流する三角地帯に建設された。1995年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「イタリアのミラノと言えば、ミラノは、イタリア及び南ヨーロッパ最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(英: Milan)、フランス語ではミラン(仏: Milan)、ドイツ語ではマイラント(独:Mailand)、スペイン語ではミラン(西: Milan)、ラテン語ではメディオラーヌム(羅:Mediolanum)と言う。」

「19世紀の終わりに綿織物企業の経営者であるクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピが、彼の企業下の工場で働く労働者のための理想郷として作り上げましたよ。」
「そうなんですか。」

「19世紀の終わりの綿織物企業の経営者であるクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピと言えば、19世紀の労働者のユートピアとして作られた小さな村、クレスピ・ダッダは、1995年世界文化遺産に登録された。クレスピ・ダッダは1878年、まだ環境問題などが社会問題になる前に、クリストフォロ・ベニーニョ・クレスピによって労働者の理想的な町として作られた。労働者のために、職場と住まいが近接した快適な環境をつくったのである。」

「クリストフォロ・ベニーニョ・クレスピが目指したのは、企業家と労働者が共に生活し、必要なものはすべて居住区内で手に入れる事のできる完璧な工業都市ですよ。」
「はい。」

「労働者が働きやすい環境を整えることは、労働者のやる気を喚起し生産力が向上、福祉環境を整えることは可処分所得の向上につながり、労働者が消費者にもなると考えましたよ。」
「はい。」

「クレスピ・ダッダは50年間、労働争議も社会的混乱もない資本主義社会の理想郷と言われましたよ。」
「そうなんですか。」

「イタリアの世界遺産クレスピ・ダッダは、アッダ川とブレンブロ川の二つの川が合流する三角州の先端にありますよ。」
「はい。」

「ブレンブロ川と言えば、クレスピ・ダッダ(イタリア語: Crespi d'Adda)は、イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオというコムーネにある、労働者のための町の名前である。19世紀にクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピにより労働者のための理想郷としてアッダ川とブレンブロ川が合流する三角地帯に建設された。」

「アッダ川と言えば、アッダ川(Adda)は、イタリアのロンバルディア州を流れる全長313kmの川である。レーティケ・アルプスに源を発し、レッコ湖(コモ湖)を出て、ガルラーテ湖、オルジナーテ湖を経て、クレモナとカステルヌオーヴォ・ボッカ・ダッダでポー川に合流する。」

「一か所だけしかない町の出入口からは一直線の道が伸びていて、南端の墓地が最終地点ですよ。」
「はい。」

「墓地の入口の大きな鉄の扉から入ると、中央には大きな道が通っていますよ。」
「そうなんだ。」

「その道の先には、ガエターノ・モレッティが建設した三角形の塔がありますよ。」
「はい。」

「ガエターノ・モレッティと言えば、19世紀の労働者のユートピアとして作られた小さな村、クレスピ・ダッダの奥にある墓地は入り口に大きな鉄の扉があり、それを入ると中央に大きな道が通っている。その両側に労働者の沢山の小さな墓があった。中央には三角形のタワーがある。これは1906年から1907年にかけてガエターノ・モレッティによって建設されたもので、この村を創設したクリストフォロ・ベニーニョの家族や工場で働いていた労働者が眠っている。」

「クリストフォロ・ベニーニョ・クレスピとその家族や労働者たちが眠っていますよ。」
「はい。」

「イタリアの町の中央の道の西側が工場地区、東側が居住地区と明確に分かれていまよす。」
「そうなんですか。」

「居住区には3歳から通える学校、誰でも診察してもらえる病院、休日のための劇場などがあり、労働者はこれらを無料で利用できましたよ。」
「はい。」

「クレスピ家の故郷ブスト・アルシツィオの教会をコピーした教会もありますよ。」
「はい。」

「クレスピ家の故郷ブスト・アルシツィオと言えば、創設者のクリストフォロ・ベニーニョは、マルペンサ空港近くのブスト・アルシツィオBusto Arsizio出身で、家族で紡績業を営んでいた。この労働者の理想郷でも綿織物が作られていた。」

「ドームには美しい幾何学模様が施され、内壁には聖書の一場面が鮮やかな色彩のフレスコ画で描かれていますよ。」
「そうなんだ。」

「フレスコ画と言えば、フレスコは絵画技法のひとつである。この技法で描かれた壁画をフレスコまたはフレスコ画と呼ぶ。西洋の壁画などに使われる。語源はイタリア語の "fresco" (「新しい」「新鮮な」という意味)である。」

「労働者のために家庭菜園付き戸建住宅が用意されましたよ。」
「そうなんですか。」

「毎年行われるガーデニングコンテストのため、競って庭を手入れしていたそうですよ。」
「はい。」

「クレスピ・ダッダの優雅な外観の工場は、ロンバルディア・ネオゴシック様式と呼ばれていますよ。」
「はい。」

「ロンバルディア・ネオゴシック様式と言えば、綿織物企業の経営者であり資産家であったイタリアのクリストフォロ・クレスピは、その企業下で働く労働者のために、ベルガモの南西15キロのアッダ川に沿った土地に“労働の理想の村:Villaggio ideale del lavoro” を作り上げました。工場は優雅なロンバルディア・ネオゴシック様式で、十分な光りが入るように設計され、換気や気温にも気が配られていました。」

「クレスピ・ダッダと言えば、クレスピ・ダッダは、イタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオというコムーネにある、労働者のための町の名前である。19世紀にクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピにより労働者のための理想郷としてアッダ川とブレンブロ川が合流する三角地帯に建設された。1995年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「室内作業に不慣れな農民出の労働者のために、たくさんの光が工場内に入るように設計され、換気や湿度にも気を配られていますよ。」
「そうなんだ。」

「工場は、つい最近までジーンズを生産していたそうですよ。」
「はい。」

「イタリアのクレスピ・ダッダは、世界遺産の中でも珍しい産業遺産ですよ。」
「そうなんですか。」

「世界遺産と産業がなかなか結びつきにくいですね。」
「そうですね。」

「この時が止まったような静かな町を歩いていると、自然とこの二つが結びつき、世界遺産であるという事が納得できるでしょう。」
「わかりました。」





イタリアの世界遺産と観光名所~ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ~

「サクリ・モンテというのをご存知でしょうか?」
「いいえ、知りません。」

「聖なる山という意味で、教会や修道院などの宗教建築物ですよ。」
「はい。」

「建築のデザインや景観、そこに飾られた彫刻・絵画がとても美しく、総合的な芸術作品と呼べるものですよ。」
「そうなんですか。」

「そして、イタリアにあるピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティは総合的な傑作作品として、2003年にユネスコの世界遺産に登録されていますよ。」
「はい。」

「ロンバルディア州と言えば、ロンバルディア州(イタリア語:Lombardia)は、イタリア経エア国北西部に位置する州である。州都はイタリア第二の都市であるミラノ。イタリア最大の人口(約1000万人)を擁する州であり、これはイタリアの人口の1/6にあたる。また、イタリアの国内総生産(GDP)の1/5を生産する。」

「ピエモンテ州と言えば、ピエモンテ州(イタリア語: Piemonte)は、イタリア共和国北西部に位置する州である。州都はトリノ。アルプス山脈南西麓に広がる州である。州都トリノは、ジェノヴァの西北約124km、ミラノの西南西約126km、ニースの北北東約156km、ジュネーヴの南東約174km、首都ローマの西北約522kmに位置する。」

「サクリ・モンティ(サクリ・モンテの複数形)と言えば、ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティは、イタリアのピエモンテ州とロンバルディア州にあるユネスコの世界遺産登録物件名である。サクロモンテ(イタリア語: Sacro Monte ; 複数形: Sacri Monti サクリ・モンティ)は「聖なる山」(英: Sacred Mountains)を意味する。本物件では北イタリアの9つのサクロ・モンテが世界遺産に登録されている。」

「サクリ・モンテの複数形が、サクリ・モンティですよ。」
「はい。」

「その数も多く質素でシンプルなものから、壮大な建築、絢爛豪華なサクリ・モンテまで幅広くありますよ。」
「そうなんだ。」

「雄大な山々に面してそびえ立つ世界遺産のサクリ・モンテもあれば、農村の一角に密やかに建っているものもありますよ。」
「はい。」

「どのサクリ・モンティも古くから地域の人たちが集い、愛されて大切に保存されてきたものですよ。」
「はい。」

「イタリアのピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティは、15世紀と16世紀にかけて宗教的巡礼地として建設されましたよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア各地から、人々が巡礼に訪れた場所ですよ。」
「はい。」

「北イタリアのマッジョーレ湖からコモ湖周辺の山々に点在していますよ。」
「はい。」

「コモ湖と言えば、コモ湖(イタリア湖: Lago di Como)は、イタリア北部のロンバルディア州にある湖である。イタリアで3番目に広い湖である。逆Y字形の形状を持ち、南東端にレッコ、南西端にコモの都市がある。ラーリオ湖(Lario)とも呼ばれる。湖の東南部分はレッコ湖とも呼ばれる。」

「マッジョーレ湖と言えば、マッジョーレ湖(イタリア語: Lago Maggiore)、別名ヴェルバーノ湖(ヴェルバーノこ、Verbano)は、イタリアのロンバルディア州とピエモンテ州の州境に有る湖で、北部はスイスのティチーノ州にまたがっている。イタリアで2番目に広い湖で、面積は212.2km2、深さは最大372mである。」

「人々が礼拝の旅に巡っていきましたよ。」
「そうなんだ。」

「日本でいう、四国のお遍路さんのようなイメージですね。」
「そうなんですか。」

「世界遺産に登録されたイタリアのピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティは、一群の中でも特に有名ですよ。」
「はい。」

「イタリア旅行で訪れるリストに登録して欲しいのが、代表的なサクロ・モンテ・ディ・ヴァラッロ、オルタ湖のサン・ジュリオ島を見下ろす聖フランチェスコの聖山であるオルタ・サン・ジュリオ、ビエッラですよ。」
「はい。」

「聖フランチェスコと言えば、アッシジのフランチェスコ(本名 ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ 、1182年7月5日 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士である。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。また、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっている。」

「ビエッラと言えば、ビエッラ(イタリア語:Biella)は、イタリア共和国ピエモンテ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約4万4000人の基礎自治体(コムーネ)である。ビエッラ県の県都である。「ビエラ」とも表記される。アルプスのふもとに位置する織物工業の中心都市である。」

「聖フランチェスコの聖山であるビエッラにあるオルタ・サン・ジュリオと言えば、イタリア旅行で訪れるリストに登録して欲しいのが、代表的なサクロ・モンテ・ディ・ヴァラッロ、オルタ湖のサン・ジュリオ島を見下ろす聖フランチェスコの聖山であるオルタ・サン・ジュリオ、ビエッラです。」

「サン・ジュリオ島と言えば、サン・ジュリオ島は、イタリア北西部、ピエモンテ州にあるオルタ湖に浮かぶ島である。長さ275メートル、幅140メートル。同地方の守護聖人である4世紀頃の宣教師ジュリオを祭る教会がある。」

「オルタ湖と言えば、オルタ湖はマジョーレ湖の西、ミラノからは車で約1時間の距離にあります。形もマジョーレ湖と同じような縦長の形をしている湖です。オルタ湖の歴史はこの地域の他の湖と同じようにかつて氷河が削った大地に水が流れ込んで形成されました。縦の長さは約10kmで周囲の湖と比べてもそれ程大きくありませんが、この小さな湖にイタリアの湖水地方の良いところが全て詰まっていると言われます。」

「サクロ・モンテ・ディ・ヴァラッロと言えば、ヴァラッロのサクロ・モンテ(Sacro Monte di Varallo Sesia)は、イタリア共和国ピエモンテ州のヴァラッロにある、ピエモンテ最古のサクロ・モンテ(聖地巡礼の仮想体験をするための宗教施設)である。世界遺産「ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ」のひとつを構成する。それは、1491年に僧ベルナルディーノ・カイミにより創設された。ヴァラッロ・セージアの居住区域の上、高さ603メートルのトレ・クローチ山の高台にある。」

「そして、聖母マリアの聖山であるサクロ・モンテ・ディ・オローパですよ。」
「そうなんだ。」

「オローパと言えば、16世紀エルサレムを模した新たな祈りの場を形成するために始まったオローパ9つの聖山が世界遺産に登録されています。これは6km北方にある世界遺産の「Sacri Monti サクリ・モンティ (複数形) 」のひとつ、Oropa オローパのサクロ・モンテ (単数形) に祀られた黒マリア像と相通じるもの。1617年、かつて存在した聖母 マリアの聖地に 、オローパのサクリ・モンティの建設が始まった。」

「聖母マリア昇天の聖山であるサクロ・モンテ・ディ・セッラゥンガ・ディ・クレア、イタリアとスイスの国境沿いにあるカルヴァリオの丘の聖山サクリ・モンティ・ディ・ドモドッソラですよ。」
「はい。」

「聖三位一体の聖山であるギッファ、ヴァレーゼにある聖ロザリオの祈りの聖山、ヴァルぺルガにあるベルモンテの聖山であるベルモンテ・ディ・ヴァルペルガですよ。」
「はい。」

「ヴァルぺルガと言えば、ヴァルペルガ(Valperga)は、人口3,136人のイタリア共和国ピエモンテ州トリノ県のコムーネの一つである。」

「聖ロザリオと言えば、ロザリオ(ポルトガル語: rosario、ラテン語:rosarium)は、カトリック教会において聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリア)を繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具、およびその祈りのことである。ロザリオの祈りは、カトリック教会における伝統的な祈りで、「アヴェ・マリア」を繰り返し唱えながら福音書に記されているイエス・キリストの主な出来事を黙想していく祈りであるが、ミサなどの典礼行為ではなく、私的な信心業として伝わるものである。基本となる祈り方(数え方)が定められていて、珠の数・形状もそれに沿って作られている。」

「ヴァレーゼと言えば、ヴァレーゼ(イタリア語:Varese)は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約7万9000人の基礎自治体(コムーネ)である。ヴァレーゼ県の県都である。ヴァレーゼ県中部のコムーネ。ヴァレーゼの市街は、ルガーノの南西約23km、ヴェルバーニアの南東約24km、州都ミラノの北西約49kmに位置する。」

「聖三位一体の聖山であるギッファと言えば、ギッファの聖三位一体の聖山は、1591年に建設された。」

「サクロ・モンテ・ディ・ヴァラッロは、世界遺産となったイタリアのピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティの代表と言えるものですよ。」
「そうなんだ。」

「サクロ・モンテ・ディ・ヴァラッロと言えば、ヴァラッロのサクロ・モンテ(Sacro Monte di Varallo Sesia)は、イタリア共和国ピエモンテ州のヴァラッロにある、ピエモンテ最古のサクロ・モンテ(聖地巡礼の仮想体験をするための宗教施設)である。世界遺産「ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ」のひとつを構成する。それは、1491年に僧ベルナルディーノ・カイミにより創設された。ヴァラッロ・セージアの居住区域の上、高さ603メートルのトレ・クローチ山の高台にある。」

「訪れるには、イタリアのノヴァーラからローカル線に乗って1時間ほどのヴァラッロ・セシアで下車しますよ。」
「はい。」

「ヴァラッロ・セシアと言えば、サクロ・モンテ・ディ・ヴァラッロは、世界遺産となったイタリアのピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティの代表と言えるものです。訪れるには、イタリアのノヴァーラからローカル線に乗って1時間ほどのヴァラッロ・セシアで下車します。」

「イタリアのノヴァーラと言えば、ノヴァーラ(イタリア語:Novara)は、イタリア共和国ピエモンテ州北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約10万人の基礎自治体(コムーネ)である。ノヴァーラ県の県都である。ピエモンテではトリノに次いで2番目の人口を持つ。ミラノ=トリノ間、ジェノヴァ=スイス間の重要な商業交通の交差路にあたる。」

「1481年の建設着工後、200年以上かけて礼拝堂や付属の宗教施設などが続々と建築されていきましたよ。」
「はい。」

「かつ、荘厳な彫刻や壮麗な宗教画等が配置されていきましたよ。」
「そうなんだ。」

「礼拝堂に飾られた宗教画は、フレスコ画にテラコッタ彫刻が施されているものが多いですよ。」
「はい。」

「テラコッタ彫刻と言えば、テラコッタは、イタリア語で「焼いた土」と言う意味です。テラコッタ彫刻は、カンタンに言うと粘土で形を創り、焼いた素焼きの彫刻です。」

「フレスコ画と言えば、フレスコは絵画技法のひとつである。この技法で描かれた壁画をフレスコまたはフレスコ画と呼ぶ。西洋の壁画などに使われる。語源はイタリア語の "fresco" (「新しい」「新鮮な」という意味)である。」

「中でも、ミケランジェロと同時期に活躍したと言われる画家ガウデンツィオ・フェラーリの作品は圧巻ですよ。」
「そうなんですか。」

「画家ガウデンツィオ・フェラーリと言えば、サクリ・モンテというのをご存知でしょうか?1481年の建設着工後200年以上にかけて礼拝堂や付属の宗教施設などが続々と建築されていき、かつ、荘厳な彫刻や壮麗な宗教画等が配置されていきました。礼拝堂に飾られた宗教画はフレスコ画にテラコッタ彫刻が施されているものが多く、中でも、ミケランジェロと同時期に活躍したと言われる画家ガウデンツィオ・フェラーリの作品は圧巻です。彼の作品としては、第2礼拝堂の受胎告知や、第5礼拝堂に飾られた三博士礼拝、第6礼拝堂の神秘的なキリストの降誕、第7礼拝堂の羊飼いの礼拝、そして第40礼拝堂ラ・ピエタがあります。」

「ミケランジェロと言えば、ミケランジェロ・ブオナローティ、(伊:Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人である。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ばれることもある。」

「彼の作品としては、第2礼拝堂の受胎告知や、第5礼拝堂に飾られた三博士礼拝、第6礼拝堂の神秘的なキリストの降誕、第7礼拝堂の羊飼いの礼拝、そして第40礼拝堂ラ・ピエタがありますよ。」
「いろいろありますね。」

「第40礼拝堂ラ・ピエタと言えば、ミケランジェロと同時期に活躍したと言われる画家ガウデンツィオ・フェラーリの作品は圧巻です。彼の作品としては、第2礼拝堂の受胎告知や、第5礼拝堂に飾られた三博士礼拝、第6礼拝堂の神秘的なキリストの降誕、第7礼拝堂の羊飼いの礼拝、そして第40礼拝堂ラ・ピエタがあります。」

「ミラノ大司教サン・カルロ・ボロメオが1578年にこの地を訪れた際に、この礼拝堂の素晴らしさに感銘を受けて、新エルサレムと評したと言われましたよ。」
「そうなんですか。」

「ミラノ大司教サン・カルロ・ボロメオと言えば、カルロ・ボッローメオ (Carlo Borromeo、1538年10月2日アロ-ナ - 1584年11月3日ミラノ) は、カトリックの聖人である。聖カルロとも。聖名祝日は11月4日。1538年イタリア北部のアローナで貴族のボッローメオ家に生まれる。1560年1月31日、母方の伯父にあたる教皇ピウス4世に任命され22歳で枢機卿となる。 1565年にはミラノ大司教となる。」

「その後も広く親しまれていますよ。」
「わかりました。」





イタリアの世界遺産と観光名所~ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群~

「イタリアのリグーリア州ラスペッツィア県にあるポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群が、1987年に世界遺産に登録されましたよ。」
「はい。」

「イタリアのリグーリア州と言えば、リグーリア州(伊: Liguria)は、イタリア共和国北西部の州である。州都はジェノヴァ。リグリア海(地中海の一部)北岸に沿って広がり、西にフランスと接する。リグーリア海岸は南フランスから続く「リヴィエラ」の一部であり、温暖な気候と風光明媚な景観により、国際的な観光地として知られる。」

「イタリアのリグーリア州ラスペッツィア県と言えば、ラ・スペツィア県(Provincia della Spezia)は、イタリア共和国リグーリア州の県の一つである。県都はラ・スペツィア(ラ・スペーツィア)。観光地として著名なリグーリア海岸(リヴィエラ)の最も東に位置する一帯であり、チンクエ・テッレなどが世界遺産に登録されている。また、ラ・スペツィアはイタリアの重要な港湾都市のひとつであり、イタリア海軍の基地が置かれているほか、造船業など工業の拠点となっている。」

「チンクエ・テッレと言えば、チンクエ・テッレ(イタリア語: Cinque Terre)は、イタリア北西部のリグーリア海岸にある5つの村を指す。険しい海岸に色とりどりの家屋が並ぶ文化的景観によって知られており、ポルトヴェーネレや小島群などと共にユネスコの世界遺産に登録されている。また、チンクエ・テッレはワインの産地としても知られる。」

「ポルトヴェーネレと言えば、ポルトヴェーネレは、イタリア共和国リグーリア州ラ・スペツィア県にある人口4000人の基礎自治体(コムーネ)である。リグーリア海岸に位置するポルトヴェーネレの集落は景勝地として知られ、近隣のチンクエ・テッレや沖合の島々とともに世界遺産に登録されている。」

「ポルトヴェーネレは、12世紀のジェノヴァ時代に築かれたお城と砦の港町ですよ。」
「はい。」

「12世紀のジェノヴァ時代と言えば、ポルトヴェーネレは、12世紀のジェノヴァ時代に築かれたお城と砦の港町です。」

「港町に城や砦が築かれたのは、この当時、海洋国家として権力を争っていた隣国のピザから国を守るためですよ。」
「そうなんですか。」

「海洋国家として権力を争っていた隣国のピザと言えば、ポルトヴェーネレは、12世紀のジェノヴァ時代に海洋国家ジェノヴァが築いたお城と砦の港町です。港町に城や砦が築かれたのはこの当時、海洋国家として権力を争っていた隣国のピザから国を守るためで、リーグレ海を航行する船の監視を強めるため、港近くに要塞を築いたのだといいます。」

「リーグレ海を航行する船の監視を強めるため、港近くに要塞を築いたのだと言いますよ。」
「はい。」

「リーグレ海と言えば、ヴェネツィア、ピサ、アマルフィ等海洋国家が栄えた時代に、ジェノヴァ共和国は隣国ピサに対抗するために、ラスペッツィア湾の軍事的な重要性からポルトヴェーネレに堅固な城を築き、リーグレ海を航行する船の監視と守備を固めた。」

「ポルトヴェーネレの名は、ポルト=港とヴェーネレ=ヴィーナスの女神から来ているとされていますよ。」
「はい。」

「ポルトヴェーネレの町は女神ヴィーナスの港として、諸外国の脅威から人々を守る町として栄えましたよ。」
「そうなんだ。」

「女神ヴィーナスと言えば、ポルトヴェーネレは、12世紀、海洋国家ジェノヴァが築いた城と砦の町である。ポルト=portoは港、ヴェーネレ=venereは女神ヴィーナス。ポルトヴェーネレは即ち女神・ヴィーナスの港なのである。」

「時が流れてもこの地は、その荘厳さを保ったまま受け継がれていますよ。」
「はい。」

「現在では、夏のリゾート地としてイタリアの人々に親しまれていますよ。」
「はい。」

「チンクエ・テッレは、リグーリア海岸線沿いの一帯にある村々の一群のことを指していますよ。」
「そうなんですか。」

「リグーリア海岸と言えば、リグーリア海岸(伊: Riviera ligure リヴィエラ・リーグレ)は、イタリア北西部の地中海(リグーリア海、ジェノヴァ湾)に面する海岸である。国際的に著名なリゾート地である。南フランスのニースから続く「リヴィエラ」と総称される海岸のうちイタリア側を指し、イタリアン・リヴィエラ(英: Italian Riviera)とも呼ばれる。」

「こちらは要塞の町ではなく、漁村ですよ。」
「はい。」

「リオマッジョーレ、マナローラ、コルニーリア、ヴェルナツッア、モンテロッソ・アル・マーレの5つの漁村が、世界遺産の登録を受けましたよ。」
「そうなんだ。」

「漁村モンテロッソ・アル・マーレと言えば、モンテロッソ・アル・マーレは、チンクエテッレで2番目の規模で、13世紀に建てられたサン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会とその鐘楼は、街のシンボルです。」

「漁村ヴェルナツッアと言えば、チンクエ・テッレは、リグーリア海岸線沿いの一帯にある村々の一群のことを指しており、こちらは要塞の町ではなく漁村です。リオマッジョーレ、マナローラ、コルニーリア、ヴェルナツッア、モンテロッソ・アル・マーレの5つの漁村が世界遺産の登録を受けました。」

「漁村コルニーリアと言えば、「コルニーリア」は世界遺産に登録されている「チンクエテッレ」の5つの漁村の中で唯一海に面していない村である。そのため駅からはミニバスを利用するか、階段を上っていくことになる。しかし、この階段がなかなか健脚を必要とする。バカンス最盛期のチンクエテッレでは、いつもバスは満員状態である。」

「漁村マナローラと言えば、イタリア北部に位置するマナローラは、古くから漁業とワイン生産が盛んな小さな村である。美しい海と色彩豊かな家々が並ぶ人気の観光地で、1997年に世界遺産に登録されました。美しい海、緑の山、カラフルな家々に、心が弾みます。切り立った山にある段々畑、住宅地、そして海。まるで崖にしがみつくような形でマナローラはあります。」

「漁村リオマッジョーレと言えば、リオマッジョーレは、イタリア北西部、リグリア州の漁村である。ポルトベネーレの北西にある五つの村チンクエテッレの一つ。断崖が続く海岸線に開けた谷間に位置し、急な斜面に色彩豊かな家々が並ぶ。古くからワイン生産が盛ん。1997年に「ポルトベネーレ、チンクエテッレ及び小島群(パルマリア、ティーノ及びティネット島)」として世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「この5つの村を巡る日帰りのツアーなども開催されていますよ。」
「はい。」

「徒歩で全ての村を巡っても4時間ほどと小さな漁村の集まりで、フィレンツェからほど近い所にありますよ。」
「はい。」

「フィレンツェと言えば、フィレンツェ(イタリア語:Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)である。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。」

「静かで素朴で穏やかな漁村ですよ。」
「そうなんだ。」

「こちらも、リゾートスポットとしても有名になっていますよ。」
「はい。」

「どの村からも、雄大な海とロマンティックな海岸線の景色が臨めますよ。」
「はい。」

「リオマッジョーレの村は高台にあり、岸壁に建ち並ぶ家々の眺めが圧巻ですよ。」
「そうなんですか。」

「リオマッジョーレから次の村マナローラに進むには、Via dell'Amolle(愛の小道)を通るのがおススメですよ。」
「わかりました。」

「Via dell'Amolle(愛の小道)と言えば、世界遺産「チンクエテッレ」にVia dell'Amolle(愛の小道)があります。ここは、かつて恋人達が逢瀬を重ねたと言われる、リオ・マッジョーレとマナローラを結ぶ散歩道です。断崖から青い海を見ながら歩くことができます。所要時間は30分程度ですが、道中のカフェで休んだり、ベンチで愛を語り合うのもお勧めです!また海岸線の絶壁の沿うように岩肌を削って造られた遊歩道は、水しぶきも飛んでくるスリルもあります。」

「海を見下ろせる岸壁沿いに道が続いていますよ。」
「はい。」

「潮風を感じながら、トレッキングを楽しむことができますよ。」
「いいですね。」

「そして、マナローラの村には高台に教会がありますよ。」
「はい。」

「その教会は、昔は海賊の監視に使われていたという鐘楼を見ることができますよ。」
「はい。」

「海岸に降りると海水浴にピッタリなスイミングスポットもあるのが、この村の魅力ですよ。」
「そうなんだ。」

「コルニーリアは、5つの村の中でも最も静寂が似合う村として知られていますよ。」
「はい。」

「ブドウ畑に囲まれ、自然を楽しむことができますよ。」
「はい。」

「ヴェルナツッアは、ユニークな村で、何もしないでのんびり過ごすことが村の風習として根付いていますよ。」
「はい。」

「イタリアグルメの代表であるジェラートを食べて一息つきながら、村人の雰囲気に合わせて、のんびり散策するのがおススメですよ。」
「わかりました。」

「イタリアグルメの代表であるジェラートと言えば、子供から大人まですべてのイタリア人に愛されているジェラート。町を歩けばジェラートを片手に歩いている人がたくさんいるし、ジェラートを専門に扱うジェラテリアの数も多い。イタリアのジェラートは口に入れるとさらっと溶けて、食べた後も口の中に脂肪分が残らない。その理由は、日本のアイスクリームよりもクリームに含まれる乳脂肪分と空気含有量が少ないからなのだそう。なかでもフルーツを使ったジェラートは、さっぱりしていていくつでも食べられそう。」

「モンテロッソ・アル・マーレは、5つの村の中で一番大きな村ですよ。」
「はい。」

「古くからの街並みが残されるエリアには、パステルカラーの家が建ち並んでいますよ。」
「はい。」

「第二次世界大戦時には、兵隊が潜伏していたという家を見学することもできますよ。」
「そうなんだ。」

「海岸からは世界遺産である5つの村全体を眺められる場所もあり、観光客の人気を集めていますよ。」
「そうなんですか。」

「この村には観光客向けのエリアが作られていますよ。」
「はい。」

「チンクエ・テッレの世界遺産観光の拠点的な役割も果たしていますよ。」
「はい。」

「日本の世界遺産で言うと、住民が今も暮らしながら観光地にもなっている白川郷や五箇山の合掌造りの村を巡るようなイメージだと思いますよ。」
「そうなんですか。」

「イタリアにまだ残るのどかな暮らしと、美しい自然を満喫できる世界遺産ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群を巡る旅に出てみましょう。」
「わかりました。」





イタリアの世界遺産と観光名所~モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場~

「私のおススメ、北イタリアの都市、世界遺産でも名高いモデナをご紹介します。」
「お願いします。」

「北イタリアの都市で世界遺産でも名高いモデナと言えば、モデナは、イタリア北部、ボローニャの北西約40キロメートルに位置する都市である。旧市街の中心にグランデ広場があり、その北側にモデナ大聖堂がある。大聖堂は1184年に完成したロマネスク様式の傑作で、彫刻家ビリジェルモの浮き彫りでも名高い。隣接する鐘塔トッレチビカ(市民の塔)は、小さな花という意のギルランディーナの愛称で呼ばれている。1997年に「モデナの大聖堂、トッレチビカ及びグランデ広場」として世界遺産(文化遺産)に登録された。」

「モデナは、ミラノとボローニャの間に位置していますよ。」
「はい。」

「ボローニャと言えば、ボローニャは、イタリア共和国北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約37万人の基礎自治体(コムーネ)である。エミリア=ロマーニャ州の州都であり、ボローニャ県の県都でもある。アペニン山脈とポー川の間にあるポー川谷に位置する。1088年創立と、西欧最古の大学ボローニャ大学(ラテン語名アルマ・マタル・ストゥディオルム)がある。また、ボローニャはイタリア有数の発展した都市である。」

「イタリアのミラノと言えば、ミラノは、イタリア及び南ヨーロッパ最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(英: Milan)、フランス語ではミラン(仏: Milan)、ドイツ語ではマイラント(独:Mailand)、スペイン語ではミラン(西: Milan)、ラテン語ではメディオラーヌム(羅:Mediolanum)と言う。」

「日本からだと、ミラノから日帰りか1泊旅行がおススメですよ。」
「わかりました。」

「あるいは、エミリア・ロマーナの州都ボローニャからは列車で30分ほどですよ。」
「近いですね。」

「エミリア・ロマーナと言えば、エミリア=ロマーニャ州(イタリア語:Emilia-Romagna)は、イタリア共和国北東部に位置する州である。州都はボローニャ。ヨーロッパの中で最も豊かな地域の一つであり、一人当たりGDPはイタリア共和国で3番目に高い。ボローニャをはじめ、モデナ、パルマ、フェラーラといったルネサンス都市が所在し、文化・観光の中心地である。」

「ここを拠点に滞在するのも良いかも知れませんね。」
「はい。」

「世界遺産の正式名称は、イタリアモデナの大聖堂、市民の塔とグランデ広場ですよ。」
「はい。」

「「トッレ・チヴィカ」と言われる世界遺産の「市民の塔」と言えば、世界遺産でも名高いモデナのトッレ・チヴィカといわれる世界遺産の市民の塔は、大聖堂の鐘楼で、聖堂北側にあります。高さが約88mもあり、北イタリアでも屈指の鐘楼です。」

「グランデ広場と言えば、ピアッツァ・グランデ(Piazza Grande, 大広場)ないしグランデ広場は、イタリアのモデナの歴史地区にある広場である。12世紀にモデナ大聖堂前に建造された広場で、現代的視点で見れば必ずしも「大きい」とはいえないが、中世の広場はもっと小さいのが常であったため、この名が残っている。1997年にモデナ大聖堂や、それに隣接する鐘楼であるギルランディーナとともに、ユネスコの世界遺産リストに登録された。」

「モデナの大聖堂と言えば、モデナ大聖堂は、イタリア・モデナにある大聖堂である。ヨーロッパで重要なロマネスク建築の一つで、ユネスコの世界遺産に登録されている。モデナ出身の著名なテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの葬儀が行われた場所である。大聖堂建設は1099年に主任建築家ランフランコの指揮下で始められた。大聖堂は、モデナの守護聖人聖ジェミアヌス(イタリア語では聖ジミニャーノ)の墓の役割を持っていた。」

「この街は、半日でも回れますよ。」
「そうなんですか。」

「個人旅行で来るなら、是非一泊して、ここの有名なバルサミコ酢を使った美味しいお料理を堪能してください。」
「わかりました。」

「バルサミコ酢と言えば、バルサミコ酢(バルサミコす)は果実酢の一種である。原料がブドウの濃縮果汁であることと、長期にわたる樽熟成が特徴である。イタリアの特産で、アチェート・バルサミコ (Aceto Balsamico) や短縮してバルサミコとも呼ばれる。なお、イタリア語でAcetoは「酢」、Balsamicoは「芳香がある」という意味。」
「モデナは、パナロ川とセッキア川との間に広がる肥沃な土地にありますよ。」
「はい。」

「セッキア川と言えば、モデナ県は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州に属する県。県都はモデナ(モーデナ)。県域には、セッキア川(英語版)やパーナロ川(英語版)など、アペニン山脈に源を発するポー川の支流が流れる。」

「パナロ川と言えば、モデナ県は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州に属する県。県都はモデナ(モーデナ)。最大の人口を持つ都市は県都モデナである。モデナは県域の中央やや北寄りに位置しており、サッチア川とパナロ川に挟まれている。」

「エミリア街道とブレンナー峠に続く道路とが交差する交通の要衝の地として、エミリア・ロマーナの州の中でも重要な都市ですよ。」
「はい。」

「ブレンナー峠と言えば、ブレンナー峠(ドイツ語:Brennerpass)は、オーストリアのチロル州とイタリアのボルツァーノ自治県の間に位置する峠である。古来からイタリアと北東ヨーロッパを繋ぐ重要な峠として利用されている。峠のイタリア側に同名の町(ブレンネロ / ブレンナー)がある。」

「エミリア街道と言えば、エミリア街道 (via Emilia) は、イタリア北部にある古代ローマ時代からの街道である。古代ローマ時代の総督マルクス・アエミリウス・レピドゥス(紀元前187年の執政官)(英語版)(イタリア語ではマルコ・エミリオ・レピド)によって紀元前187年にピアチェンツァとリミニを結ぶ約270kmの街道として作られた。彼の名前を取ってアエミリア街道 (Via Aemilia) と名付けられ、そのイタリア語訳 (Via Emilia) を和訳したものがエミリア街道である。このため古代ローマ関係の歴史書ではアエミリア街道と記述されることもあるが、同じ物である。」

「最初にモデナと聞いたときは、バルサミコくらいしかイメージがありませんでしたね。」
「そうなんですか。」

「有数のグルメもうなる美食の街で、ミシュランの星がついた美味しいレストランもたくさん点在していますよ。」
「そうなんだ。」

「バルサミコ酢だけでなく、発泡性ワインのランブルスコ、ザンポーネなどの産地としても、イタリア国内でも有名ですよ。」
「はい。」

「発泡性ワインと言えば、発泡ワインまたはスパークリング・ワイン(Sparkling wine)とは、ワインの一種で、二酸化炭素を多く含み、開栓すると圧力が下がって二酸化炭素が気泡として立ち上ってくるものである。発泡ワインには、瓶内発酵のために二酸化炭素が溶け込んでいるものと、人工的に二酸化炭素を吹き込んだ、いわゆる炭酸ワインとが存在する。日本では発泡ワインに対してシャンパンの語が使われることもあるが、本来はAOCの規定に従った、フランスのシャンパーニュ地方産の発泡ワインにのみ許された呼称である。」

「発泡性ワインのランブルスコ、ザンポーネと言えば、モデナは、セッキアSecchia川とパナロPanaro川との間に広がる肥沃な平野に位置し、エミリア街道とブレンナー峠へ行く道路とが交差する交通の要衝の地となっている。エミリア・ロマーナの州の中でも重要な地位を占めている。現在はフェラーリ、マセラッティなどの高級車、鉄道建設、靴などの工業、またバルサミコ酢、発泡性ワインランブルスコ、ザンポーネなどの産地として名高い。」

「モデナの歴史は、古代ローマ時代にさかのぼりますよ。」
「そうなんですか。」

「紀元前183年に、ローマの植民都市としてエミリア街道に沿って発展しましたよ。」
「はい。」

「その後、中世の時代はロンバルト族の侵入などで一時消滅の危機に陥りましたよ。」
「はい。」

「ロンバルト族と言えば、ランゴバルド族または、ロンバルト族は、ゲルマン人の一部族である。紀元後5年の記録に登場する部族で、当時はエルベ川下流左岸に住んでいた。5世紀初めに南下を開始し、6世紀初めにはパンノニア (ほぼ現在のハンガリー共和国が占める地域)に進出、568年に北イタリアのロンバルディア地方に現れて、ランゴバルド王国を建設したことで知られる。王国はリウトプランド王(在位712‐744)、アイストゥルフ王(在位749‐756)のときに全盛期を迎え、ビザンティン領ラベンナを併せ、ローマをも脅かしたが、774年カール大帝に敗れて滅びた。」

「しかし、11世紀には再興しますよ。」
「そうなんだ。」

「1288年にはエステ家の支配下に入り、その後エステ家への反乱などがくり返されますよ。」
「はい。」

「エステ家と言えば、エステ家(イタリア語: famiglia d'Este)は、中世以降のイタリアの有力な貴族の家系である。学芸の保護者を生んだことでも知られる。起源はリグーリア地方やミラノを支配していたオベルテンギ家の支流であり、ゲルマン系ランゴバルド族の貴族であった。家名の由来は11世紀の当主アルベルト・アッツォ2世がエステ辺境伯の地位を獲得し、子孫がその世襲に成功したことに由来する。」

「1598年にエステ家がフェッラーラを喪失してから後、2世紀半の間、エステ家の都となりますよ。」
「はい。」

「フェッラーラと言えば、フェラーラ(フェッラーラ、イタリア語:Ferrara)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約13万人の基礎自治体(コムーネ)である。フェラーラ県の県都である。14世紀、この地を治めたエステ家によって整備され、ルネサンス期に文化の中心地の一つとして栄えた。エステ家の居城エステ城が一般に公開されている。」

「それから1814年にハプスブルク家に支配され、1859年にイタリア王国に編入されましたよ。」
「そうなんだ。」

「イタリア王国と言えば、イタリア王国は、現在のイタリア共和国の前身となる王国である。1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。」

「ハプスブルク家と言えば、ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系である。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。」

「この世界遺産の何が素晴らしいかと言うと、街の中心地でシンボルでもある大聖堂と市民の塔ですよ。」
「はい。」

「エミリア街道から南に少し離れたグランデ広場にありますよ。」
「はい。」

「彫像で装飾された美しいファザードは目を見張るものがありますよ。」
「そうなんですか。」

「(像で装飾された美しい)ファザードと言えば、ファサード (facade) は、建築物の正面(デザイン)である。フランス語に由来し、英語のfaceと同根。最も目に付く場所であり、重要視される。」

「13世紀の見事なバラ窓が、大変美しいですよ。」
「そうなんだ。」

「バラ窓と言えば、バラ窓とは、普通一般に、そして特にゴシック建築において、ステンドグラスで作られた円形の窓で、一般的にマリオンとトレサリーが中央から放射状に伸びている。聖母マリアは「奇(くす)しきバラの花」とも言われ、教会や大聖堂においてバラ窓はしばしば聖母マリアを暗示しており、バラの花を精巧に模すこともあった。」

「内部は、内陣仕切りや説教壇など、絵画や13世紀の彫像で装飾されていますよ。」
「はい。」

「クリプトは、30本の細い柱で支えられており、モデナの守護聖人サンジミニャーノの聖遺物が保管されていますよ。」
「はい。」

「モデナの守護聖人サンジミニャーノと言えば、ジミニャーノ (Gimignano、312年? - 397年1月31日) は、カトリック教会の助祭で、のちにモデナの司教である。ジェミニアーノ (Geniniano)。カトリック教会、ギリシア正教会で聖人であり、聖ジミニャーノ、サン・ジミニャーノ、サン・ジェミニアーノなどとも。モデナの守護聖人である。聖名祝日は命日の1月31日。没した地は現在はサン・ジミニャーノと呼ばれている。」

「(30本の細い柱で支えられた)クリプトと言えば、モデナ大聖堂の内部は、内陣仕切りや説教壇など、絵画や13世紀の彫像で装飾されている。クリプトは、30本の細い柱で支えられ、聖ジミニャーノの聖遺物が保管されている。」

「トッレ・チヴィカと言われる世界遺産の市民の塔は、大聖堂の鐘楼で、聖堂北側にありますよ。」
「はい。」

「「トッレ・チヴィカ」と言われる世界遺産の「市民の塔」と言えば、世界遺産でも名高いモデナのトッレ・チヴィカといわれる世界遺産の市民の塔は、大聖堂の鐘楼で、聖堂北側にあります。高さが約88mもあり、北イタリアでも屈指の鐘楼です。」

「高さが約88mもあり、北イタリアでも屈指の鐘楼ですよ。」
「高いですね。」

「このモデナの大聖堂、市民の塔とグランデ広場を歩き、カフェに入ってゆっくりするだけでも、本当に価値のある滞在となることでしょう。」
「わかりました。」





イタリアの世界遺産と観光名所~レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観~

「レーティッシュ鉄道は、スイスにある鉄道会社ですよ。」
「はい。」

「レーティッシュ鉄道(スイスにある鉄道会社)と言えば、レーティッシュ鉄道は、スイス東部のグラウビュンデン州を中心に約400kmの路線網を持つスイス最大級の私鉄である。沿線にサンモリッツやダヴォスなどの世界的なリゾート地を持ち、氷河急行やベルニナ急行といった看板列車を走らせている観光路線であるほか、地域の生活路線としても旅客・貨物輸送共に多数の列車を運行してグラウビュンデン州の鉄道輸送をほぼ一手に担い、州の経済において重要な役割を果たしている。アルブラ線の一部とベルニナ線は「レーティシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観」として世界遺産リストへの登録もされている。」

「レーティシュ鉄道アルブラ線と言えば、レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観は、スイスとイタリアが共有する「国境を越える世界遺産」のひとつである。スイスのグラウビュンデン州からイタリアのロンバルディア州ソンドリオ県にかけてを走るレーティッシュ鉄道のアルブラ線とベルニナ線は、登山鉄道で広く見られるラック式を採用していない粘着式鉄道としてはヨーロッパ最高地点を通る鉄道であり、20世紀初頭における技術的到達の優れた例証などとして、2008年にユネスコの世界遺産リストに加えられた。」

「スイスとイタリアにまたがって、路線が延びていますよ。」
「はい。」

「そのうち、世界遺産に認定されたのは、レーティシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観ですよ。」
「そうなんだ。」

「レーティシュ鉄道ベルニナ線と言えば、レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観は、スイスとイタリアが共有する「国境を越える世界遺産」のひとつである。スイスのグラウビュンデン州からイタリアのロンバルディア州ソンドリオ県にかけてを走るレーティッシュ鉄道のアルブラ線とベルニナ線は、登山鉄道で広く見られるラック式を採用していない粘着式鉄道としてはヨーロッパ最高地点を通る鉄道であり、20世紀初頭における技術的到達の優れた例証などとして、2008年にユネスコの世界遺産リストに加えられた。」

「総延長距離は、89kmのアルブラ線と60.7kmのベルニナ線となっていますよ。」
「はい。」

「ほとんどの区間は単線ですが、複線化工事を積極的に行なっていますよ。」
「はい。」

「スイスとイタリアの国境に位置するアルプス山脈を超えることから難工事の連続でしたよ。」
「そうでしょうね。」

「スイスとイタリアの国境に位置するアルプス山脈と言えば、アルプス山脈は、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属し、ヨーロッパ中央部を東西に横切る「山脈」である。オーストリア、スロベニアを東端とし、イタリア、ドイツ、リヒテンシュタイン、スイス各国にまたがり、フランスを南西端とする多国にまたがっているため、大きくは東・西アルプス山脈に分けられ、東アルプス山脈はジュリアアルプス山脈など、西アルプス山脈はペンニネアルプス山脈などの支脈にさらに細かく分かれている。」

「アルプスの自然を壊すこと無く、溶け込んだ眼下に広がる大地は、まさに未来にも残したい世界遺産になるべき存在ですよ。」
「はい。」

「レーティシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線は、当時の鉄道技術が結晶された路線でもありますよ。」
「はい。」

「イタリアの世界遺産のアルブラ線は、1896年から1904年にかけて全通した路線で、レーティッシュ鉄道のメイン路線ですよ。」
「はい。」

「アルプスの険しい山々をトンネルや急勾配、ループ線やオメガ線を活用することで、一つ一つ克服して行きましたよ。」
「そうなんですか。」

「ループ線と言えば、ループ線とは、鉄道や道路において、山間部に隧道(トンネル)や橋梁を建設して螺旋状に線路もしくは道路を敷設することにより、急勾配を緩和してルートを形成する手法またはその線形のことである。また、環状に線路(軌道・架線)を敷設して、車両の折り返しや方向転換のために使うものもある。路面電車やトロリーバス、新交通システムの起終点駅などに見られる。この形態を特にラケット状ループ線、ラケット型ループ線、などということがある。」

「一番の絶景は、長さ141mで高さ65m、勾配20パーミルの石橋、ラントヴァッサー橋ですよ。」
「はい。」

「長さ141mで高さ65m、勾配20パーミルの石橋、ラントヴァッサー橋と言えば、ラントヴァッサー橋(ドイツ語:Landwasserviadukt)はスイスのグラウビュンデン州にある鉄道高架橋である。シュミッテンの南にあるラントヴァッサー峡谷にかかっており、長さは136メートル、高さは65メートルである。1901年から1903年にかけて建設された。レーティッシュ鉄道 (RhB)が利用しており、氷河急行もこの橋を通過する。」

「片側は垂直に切り立った崖とトンネル、もう片側は急な斜面ですよ。」
「そうなんですか。」

「橋自体も半径400mの急なカーブになっていることから、渓谷の険しい光景を目にすることができますよ。」
「はい。」

「ベルギュンからプレダまでは、ゆるやかな勾配で進めるようにループ線を多用し、高さを稼いでいますよ。」
「はい。」

「プレダと言えば、プレダは、世界文化遺産に指定されているレーティッシュ鉄道(RhB)アルブラ線の駅である。」

「ベルギュンと言えば、ベルギュンは、世界文化遺産に指定されているレーティッシュ鉄道(RhB)アルブラ線の駅である。」

「ソリス橋は高さ89mの橋であり、全長164mの石橋ですよ。」
「そうなんだ。」

「ソリス橋と言えば、世界文化遺産に指定されているレーティッシュ鉄道のソリス駅近くでユリア川を越えるソリス橋はレーティッシュ鉄道で一番高い橋であり、全長164m、高さ89mの石造橋である。」

「アルブラトンネルは、全長5866mと完成当時狭軌最長のトンネルですよ。」
「長いですね。」

「アルブラトンネルと言えば、世界文化遺産に指定されているレーティッシュ鉄道のブレダ駅を過ぎるとすぐにアルブラ峠をくぐり北海と黒海の分水嶺であるアルブラトンネルに入る。このトンネルは開通時、狭軌世界最長のトンネルであり、現在でもアルプスを越える最も標高の高いトンネルであり、全長5866mでブレダ側約3000mが上り10パーミル、その先が下り2パーミルとなっている。」

「北海と黒海の分水嶺になっている場所を通過しますよ。」
「はい。」

「黒海と言えば、黒海は、ヨーロッパとアジアの間にある内海である。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。」

「北海と言えば、北海は、大西洋の付属海である。古名はゲルマン海。」

「ベルニナ線は、1910年に全通した路線ですよ。」
「はい。」

「殆どの区間は、雪が溶ける夏季のみの運転ですよ。」
「そうなんですか。」

「標高2253mから429mを最高70パーミルの急勾配で一気に駆け抜ける路線は、まるでアトラクションのようですよ。」
「はい。」

「途中では氷河が三箇所見られ、高さ1800mより高い所では森林限界を超えますよ。」
「はい。」

「森林限界とは、森林が生育できる限界の高度のことを言いますね。」
「そうなんだ。」

「アルプ・グリュムからポスキアーヴォにかけては、10箇所のヘアピンカーブと急勾配を設けたことで、わずか6kmの距離の間に高さを1070mも下げていますよ。」
「はい。」

「ポスキアーヴォと言えば、ポスキアーヴォは、ベルニナ線のアルプ・グリュムを越えて、約1000mの標高を下っていくと栗や樫などの林の間から見えてくるかわいい村である。グラウビュンデン州の最南端に位置しイタリアまでのびるポスキアーヴォ谷の中心地です。中世の時代に迷いこんだような広場には、大理石の柱や飾りに見える精巧なトロンポイユ(だまし絵)が印象的な美しい邸宅、市庁舎の塔や、後期ゴシックの教会、文化財指定されているホテルなど、16~19世紀頃の建物が並んでいます。」

「アルプ・グリュムと言えば、アルプ・グリュムはポスキアーヴォ方面も一望にすることができる、この路線で最も眺めのいいポイントです。」

「後の箱根登山鉄道も、この路線を評判を聞きつけ査察に訪れ、その後モデルとして建設され、姉妹路線となりましたよ。」
「そうなんだ。」

「姉妹路線である箱根登山鉄道と言えば、箱根登山鉄道株式会社は、神奈川県小田原市に本社を設け、神奈川県足柄下郡(あしがらしもぐん)箱根町周辺を主な営業エリアとする鉄道会社である。当時の東海道本線の経路から外れる小田原と箱根を結ぶことを目的として1888年に設立された小田原馬車鉄道(その後の軌道線)が前身で、その後電化により1896年には小田原電気鉄道となり、1928年にいったん日本電力に合併した後に箱根登山鉄道として独立した。」

「トンネルや急勾配の連続で、所要時間短縮を図る経済的な鉄道ばかりの日本では、絶対に見られませんよ。」
「そうなんですか。」

「イタリア世界遺産のレーティシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観を、全線にわたって味わうことができますよ。」
「はい。」

「日本の鉄道も最高の技術を惜しみなく使っていますよ。」
「はい。」

「イタリアのベクトルの方向が、180度違うとも言えますね。」
「そうですね。」





イタリアの世界遺産と観光名所~レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院~

「イタリアの世界遺産であるレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』がある、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院は、ミラノという町にありますよ。」
「はい。」

「ドメニコ会修道院と言えば、ドメニコ会修道院は、町の防衛を務める城壁と完全に融合しています。この場所が戦略上重要な位置にあるため、1228年に始まった修道院の建設には、ドゥブロヴニク政府が全面的に支援しています。ロマネスク、バロック、ゴシック、ルネッサンスと、様々な様式が入り混じっていながら、素晴らしい調和を生み出している建築です。教会は、アドリア海東岸で最も代表的なゴシック様式の建物になっています。ドミニコ会修道院には、15世紀と16世紀のドゥブロヴニク絵画学校の特に貴重な絵画作品も保存されています。」

「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会と言えば、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(イタリア語: Chiesa di Santa Maria delle Grazie)は、イタリア・ミラノにあるカトリック教会の聖堂である。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は、敷地内の修道院にある食堂の壁画であり、ユネスコの世界遺産(レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院)に登録されている。」

「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』と言えば、『最後の晩餐』(さいごのばんさん、伊: L'Ultima Cena)は、レオナルド・ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画である。これはキリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の晩餐の情景を描いている。ヨハネによる福音書13章21節より、12弟子の中の一人が私を裏切る、とキリストが予言した時の情景である。」

「レオナルド・ダ・ヴィンチと言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ (伊:Leonardo da Vinci 、1452年4月15日 -1519年5月2日(ユリウス暦))はイタリアのルネサンス期を代表する芸術家である。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci ) で、絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に顕著な業績を残し、「万能人 (uomo universale )」 と異名などで親しまれている。レオナルドはルネサンス期を代表する博学者であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といわれている。」

「イタリアのミラノと言えば、ミラノは、イタリア及び南ヨーロッパ最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(英: Milan)、フランス語ではミラン(仏: Milan)、ドイツ語ではマイラント(独:Mailand)、スペイン語ではミラン(西: Milan)、ラテン語ではメディオラーヌム(羅:Mediolanum)と言う。」

「レオナルド・ダ・ヴィンチのドキュメンタリー映画を見てから、是非イタリアとフランスに世界遺産のレオナルド・ダ・ヴィンチの足跡を辿る旅に行ってみたいとずっと思っていましたよ。」
「そうなんだ。」

「映画の中で、あの世界遺産サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の『最後の晩餐』のシーンで、一日にほんの少しだけ描いたり、その気分によって仕事のスピードが違っていて、毎日少しずつ長い期間を経て完成させているのが印象的でしたよ。」
「はい。」

「そのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の修道士が、ダ・ヴィンチに仕事が遅いのでもう少し早く終わらせて欲しいとお願いするシーンもドキュメンタリーに出てきますね。」
「はい。」

「イタリアへ行ってその教会を見学しようと予約をしても、夏場は特に混みますよ。」
「そうなんですか。」

「日本から早めに予約をするのが良いと思いますよ。」
「はい。」

「ミラノはあの時代、フランスが統治していた時期もあり、またイタリアになったりと揺れていましたよ。」
「はい。」

「世界遺産のダ・ヴィンチに、フランスに『最後の晩餐』を持ち帰りたいと壁画で不可能であるにも関わらず冗談をいうシーンもあり、微笑ましいですね。」
「そうですね。」

「絵を描いた数十年後、絵学生たちは『最後の晩餐』の絵を見ながら絵を描いていたようでしたよ。」
「はい。」

「ミラノが戦禍に見舞われた時、その教会の『最後の晩餐』が描かれていた壁は、不思議に残っていたそうですよ。」
「そうなんですか。」

「実際ミラノへ行って壮大なその絵を眺めていると、当時のレオナルド・ダ・ヴィンチをどうしても思い浮かべてしまいましたよ。」
「はい。」

「あのドキュメンタリーで、絵の構想を練る様子は聖書を実際に読んだり、描いては捨てているシーンもあり、その繰り返しを経て世界的にも認められる絵を完成させた才能は素晴らしいですよ。」
「はい。」

「あの頃、同じような『最後の晩餐』の絵は、他の画家も描いていますよ。」
「そうなんですか。」

「眺めていても、一番ぐんと見る人を惹きつける魔力を持っている描き方、構図はやっぱりレオナルド・ダ・ヴィンチが一番だと思いますよ。」
「そうなんだ。」

「ミラノは、どこかビジネス街のような面があって、どこかお洒落を感じる街ですね。」
「はい。」

「あの街から世界的に有名な高級車やファッションが生まれているのも、不思議ではない感じがしますね。」
「はい。」

「しかし、当時は才能ある芸術家を大事に召抱えてくれるパトロンも多く、天才レオナルド・ダ・ヴィンチのような芸術家が花を開く時代にもなったと思いますよ。」
「そうなんだ。」

「イタリアもレオナルド・ダ・ヴィンチをフランスへ移住させないくらいの良い待遇をしていたなら、モナリザもフランスに渡る事は無かったでしょう。」
「そうですね。」

イタリアの世界遺産とシチリア島~アグリジェントの遺跡地域・ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々・ヴィッラ・アドリアーナ・ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ・エオリア諸島・サン・ジョルジョ山・シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡・スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ~

「イタリアの世界遺産とシチリア島~アグリジェントの遺跡地域・ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々・ヴィッラ・アドリアーナ・ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ・エオリア諸島・サン・ジョルジョ山・シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡・スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ~」
イタリアの世界遺産とシチリア島~アグリジェントの遺跡地域・ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々・ヴィッラ・アドリアーナ・ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ・エオリア諸島・サン・ジョルジョ山・シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡・スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ~
イタリア 世界遺産 シチリア島

イタリアの世界遺産と観光名所~サヴォイア王家の王宮群・ヴァル・ドルチャの丘陵地帯・クレスピ・ダッダ・ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ・ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群・モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場・レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観・レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院~

「イタリアの世界遺産と観光名所~サヴォイア王家の王宮群・ヴァル・ドルチャの丘陵地帯・クレスピ・ダッダ・ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ・ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群・モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場・レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観・レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院~」
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イタリア 世界遺産 観光名所

イタリアのナポリの世界遺産や食文化~アマルフィ海岸・アルベロベッロのトゥルッリ・ティヴォリのエステ家別荘・デル・モンテ城・ナポリ歴史地区・パエストゥムとヴェーリアの考古遺跡群やパドゥーラのカルトゥジオ修道院を含むチレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園・ポンペイ、エルコラーノおよびトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域・マテーラの洞窟住居~

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イタリア ナポリ 世界遺産 食文化

イタリアの世界遺産と地方都市の旅~ヴァル・ドルチャ・ウルビーノ歴史地区・サン・ジミニャーノ歴史地区・シエーナ歴史地区・チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群・ピエンツァ市街の歴史地区・ピサのドゥオモ広場・フィレンツェ歴史地区~

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イタリア 世界遺産 地方都市 旅

世界遺産のおすすめ~基礎・人気・日本・ユネスコ~

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