大阪府立狭山池博物館(建築家安藤忠雄設計)





大阪府立狭山池博物館の所在地

大阪府立狭山池博物館の住所は、〒589-0007大阪府大阪狭山市池尻中2丁目です。
大阪府立狭山池博物館の電話番号は、072-367-8891です。
大阪府立狭山池博物館の開館時間は、午前10時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)です。
大阪府立狭山池博物館の休館日は、月曜日(祝休日の場合は翌日)・年末年始(12月28日~1月4日)です。
大阪府立狭山池博物館の入館料は、無料です。
大阪府立狭山池博物館でのお食事は、本館3階に喫茶コーナーがあります。
大阪府立狭山池博物館への主な交通は、南海電鉄なんば駅より南海高野線にて大阪狭山市駅で下車し、徒歩あるいはバスで、西へ約700mです。
博物館には大型バス・車椅子利用者用の駐車場があります。
一般車両は、約500m西にある北堤駐車場をご利用ください。
※車で行って駐車場を利用する場合は、狭山池博物館の駐車場ではなく、狭山池の無料駐車場を利用してください。

狭山池の駐車場から見える狭山池の様子です。

狭山池の北側に狭山池博物館があります。

狭山池博物館の入口です。

エレベーターに乗って一番下まで降りると通路があります。
この写真は、通路から観た滝のカーテンを撮影したものです。
※滝のカーテンについてはより詳しく後述しています。

円形広場から水庭(みずにわ)を観た様子です。





狭山池博物館の詳細

建築家安藤忠雄が設計した狭山池博物館

2001年に狭山池博物館は開館しました。
狭山池博物館には、平成の改修で発見された貴重な土木遺産が展示されています。
狭山池博物館の建物は、著名な建築家の安藤忠雄さんが設計しました。

水庭

水庭(みずにわ)の滝は、1時、2時、3時のように、正時(しょうじ; 1時0分0秒などの端数が付かない正確な時刻)から10分間、大きな音の迫力とともに流れ続けます。

円形広場

水庭(みずにわ)の通路を進んで行くと、円形広場に入ります。
円形広場の階段、あるいは坂のスロープを上がっていくと、狭山池博物館の建物の入口に到着します。
入口の自動ドアから建物に入ると、受付があり、そのすぐ近くに巨大な土の壁が見えます。
この大きな壁は、本物の堤防を薄く切り取ったものです。

狭山池、平成の改修

狭山池は、台風の大雨をきっかけに、改修が行われました。
1982年8月に、狭山池の下流で大水害が起きました。
このため、池底を3m深くしました。
また、堤防を1.1m高くしました。
このように水害を防ぐための改修が行われました。
この改修工事は1988年に始まり、2002年までの14年間も費やされました。
これを「平成の改修」と言います。

古い木の樋の発見

狭山池の水は、農業用水に使われています。
狭山池の改修の際に、狭山池の北側にある堤防のうち、弱い部分を取り替えて新しくしました。
この時、堤防の東側から池の水を取り出すための、2本の古い木の樋(ひ; パイプ)が、重なった状態で発見されました。

約400年前および約1400年前の樋

上の方の樋(ひ; パイプ)は、西暦1608年頃に作られたもので、今から約400年も前の古いものです。
下の方の樋(ひ; パイプ)は、西暦616年頃に作られたもので、今から約1400年も前のさらに古いものです。

幅は62m、高さは15.4mの地層

展示されている巨大な地層は、古い北堤(ほくてい)を、南北に薄く切り出して、博物館内に移したものです。
厳密な地層の大きさは、幅が62m、高さが15.4mもあります。
この北堤(ほくてい)の断面の地層を見ることで、様々な分析ができます。
例えば、狭山池が作られてから何度も改修されていることが、この地層から分かります。

推古天皇や聖徳太子の時代、日本最古の狭山池

狭山池がいつ頃に作られたかは、長い間、謎のままでした。
しかし、平成の改修で堤(つつみ)の東側から発見された、コウヤマキの樋(ひ; パイプ)の年輪から、西暦616年頃に作られたということが分かりました。
つまり、狭山池が作られたのは、推古天皇や聖徳太子の時代で、狭山池は日本最古であることが判明しました。

7世紀、狭山池が作られたきっかけ

7世紀は、仏教を盛んにするために、多くの寺院が建設され、また都市や道路が整備された時代です。
この時、百済(くだら)(韓国)および隋(ずい)や唐(とう)(中国)から、様々な技術や文化、法律などを取り入れました。
そして、これらの諸外国と対等な関係を作るために、水を確保して農業を盛んにし、日本を豊かな国にしようとしました。
このことが、狭山池が作られたきっかけになります。

飛鳥時代の堤防

飛鳥時代の堤防には、小枝を並べて土を積むという敷葉(しきは)工法が使われていました。
また、土嚢(どのう; 土を入れた袋)も、たくさん使われています。
これらの技術が、中国から朝鮮半島を通って日本に伝わり、頑丈な堤防を作るために役立てられました。

飛鳥時代の樋

7世紀初め頃の飛鳥時代の樋(ひ; パイプ)は、コウヤマキで作られた管を7本並べて作られました。
これは60mほどの長さとなり、水が漏れないように、つなぎ目が工夫されています。

江戸時代の樋

江戸時代の樋(ひ; パイプ)は、板を組み合わせて、釘で止められています。
多くの材木と、たくさんの釘が、使われています。
板には焼き印が押されているものがあり、これは工事を請け負った商人が押したものです。

奈良時代の行基

奈良時代の731年に、行基(ぎょうき)というお坊さんが狭山池の改修をしました。
行基(ぎょうき)は、今の堺市の出身です。
行基(ぎょうき)は社会事業を行い、東大寺の大仏を作るのに協力したことで有名です。
奈良時代の後半の762年には、国が狭山池の大規模な改修をしました。
この時、堤防が大きくなったため、13mもある長さの樋管(ひかん)がつぎ足されて用いられました。
この大規模な狭山池の改修工事では、総人数約8万3000人もの人が働いたという記録が残っています。

鎌倉時代の重源

鎌倉時代の初め頃の1202年に、重源(ちょうげん)というお坊さんが、狭山池を改修しました。
重源(ちょうげん)は、中国人の技術者を日本に招き、東大寺を再建したことで有名です。
狭山池の改修では、重源(ちょうげん)は、樋管(ひかん)に20個以上もの石棺(せっかん)を用いました。
なぜなら、木は腐っていきますが、石は決して腐らないためです。
重源(ちょうげん)の改修によって、狭山池の水は、西除川(にしよけがわ)の西側(今の堺市)にも流れるようになり、農地が拡大し、あちこちに新しい村ができました。
狭山池の平成の改修の際には、鎌倉時代の重源(ちょうげん)の改修記念碑が発見されました。

地震の発生

1596年に大きな地震があり、京都の伏見城が倒壊しました。
この時、城内にいた秀吉は命拾いしましたが、狭山池にも大きな被害がありました。
そこで、片桐且元(かたぎりかつもと)というお侍(さむらい)さんが、江戸時代の1608年に狭山池を改修しました。
これを、慶長(けいちょう)の改修と言います。
主な改修工事を説明すると、東樋、中樋、西樋、木製枠工(もくせいわっこう)を作り、西除(にしよけ)を作り替え、東除(ひがしよけ)を新しく作り、堤防を高くしました。

水を取り出す部分が4段

西樋と中樋は、水を取り出す部分が4段になって作られ、西樋も中樋も1926年頃まで使われました。
平成の改修の時に、一番下の4番樋(ひ; パイプ)が見つかりました。
4段にすることで、水温が高い上の方の水が取れ、樋(ひ; パイプ)の開け閉めがやりやすくなりました。

江戸時代の片桐且元

片桐且元(かたぎりかつもと)は、今で言うところのリサイクルの名人でした。
平成の大改修で発見された中樋の様子が博物館に再現されていますが、重源(ちょうげん)が樋管(ひかん)に使った石棺(せっかん)や改修記念碑が、樋(ひ; パイプ)の周辺が壊れないように再利用されています。
また、樋(ひ; パイプ)を作る木材は、軍船(ぐんせん)に用いられていたものが使われています。
このようにして、工事の費用が節約されました。

江戸時代、明治、大正、昭和

江戸時代には、片桐且元(かたぎりかつもと)の改修後も、狭山池は何度も繰り返し改修されました。
そして、明治以降の改修のうち、1926年から1931年にかけて行われた「大正・昭和初年の改修」では、4段樋(よんだんび)に代わってコンクリートの樋管(ひかん)が並べられ、加えてコンクリートの取水塔(しゅすいとう)が作られました。
また、この時、狭山池の副池(ふくいけ)も作られました。

近代的なダムの建設

平成の改修は、大阪府による工事で、西除川(にしよけがわ)や東除川(ひがしよけがわ)流域の治水のために、狭山池を近代的なダムに作り変えました。
結果として、狭山池はそれまで貯水量が180万トンだったのが、さらに100万トン増加し、280万トンも貯水できるようになりました。
これにより、狭山池の治水力が大幅に増加しました。

国の史跡に指定

2015年3月10日に狭山池は、国の史跡(しせき)に指定されました。
そんな狭山池では、多くの人が一年中、ウォーキングやジョギング、ランニングなどを楽しんでいます。
そして毎年、春になると、桜の花見や、狭山池まつりで賑わいます。
皆さんも是非、狭山池を観に来てくださいね。

世界的建築家の安藤忠雄とは

狭山池博物館を設計したのは、世界的建築家の安藤忠雄さんです。
安藤忠雄さんは、1941年に大阪市で生まれ、35歳の時に設計した「住吉(すみよし)の長屋(ながや)」が高い評価を受けて、日本建築学会賞を受賞しました。
その後、安藤忠雄さんは世界を舞台に活躍し、数々の世界的な賞を受賞し、今では世界で有名な一流の建築家です。

狭山池博物館は安藤建築の最高峰

狭山池博物館は、数多くの安藤建築の中でも、最も素晴らしい建築だと言えます。
建物はお城のように大きく、水庭(みずにわ)もまた大変広く、滝のカーテンの迫力には驚きを隠せません。
この安藤建築のエッセンスが詰まった狭山池博物館を、是非観て体験し、楽しんでいただければと思います。

安藤建築の特徴

安藤建築の特徴は、以下の三点で表されます。
(1)コンクリートの打ちっぱなし
(2)円や立方体の使用
(3)水、光、風、木、空、音などの自然との関係性

狭山池博物館内の展示物とともに、博物館の建物、そして狭山池をゆっくり観ていってくださいね。





狭山池博物館内展示ガイド

狭山池は、7世紀の初め頃にできた日本最古のダム式のため池です。
狭山池の改修には、奈良時代の行基(ぎょうき)、鎌倉時代の重源(ちょうげん)、江戸時代の片桐且元(かたぎりかつもと)など、歴史上の著名な人物が携わってきました。
そして、1400年もの歴史が積み重なる堤や、水を取り出す樋(ひ; パイプ)、堤の滑りを防ぐ木製枠工(もくせいわっこう)といった土木遺産には、それぞれの時代の知恵と工夫が活かされています。
狭山池博物館では、このような貴重な土木遺産を未来に継承するため、古代から人々の暮らしに深くかかわってきた治水や灌漑(かんがい)、そして土地開発の歴史を、現地から移築した土木遺産を中心に、映像や模型などを用いて、わかりやすく紹介しています。

第1ゾーン「狭山池への招待」

1400年間の歴史が積み重なる、高さ15.4m、幅62mの堤が、迫力を持って見学者をお出迎えします。
また、堤の前には、飛鳥時代と江戸時代の東樋が置かれています。

第2ゾーン「狭山池の誕生」

国家的プロジェクトにより、狭山池は誕生しました。
また、このプロジェクトでは、国際的な土木技術として知られる敷葉(しきは)工法などが用いられました。

第3ゾーン「古代の土地開発と狭山池」

奈良時代の改修では、行基(ぎょうき)が活躍します。
また、律令国家による大規模な工事も推進されました。
つまり、農業生産の安定や向上のため、国家政策として、川やため池の改修が行われました。

第4ゾーン「中世の土地開発と狭山池」

鎌倉時代には、重源(ちょうげん)が活躍し、古墳時代の石棺(せっかん)を利用した樋(ひ; パイプ)を作りました。
狭山池から、この記録を刻んだ重源狭山池改修碑が発見され、当時の工事の全容が判明しました。

第5ゾーン「近世の土地開発と狭山池」

江戸時代の初め頃に、片桐且元(かたぎりかつもと)が活躍し、狭山池の改修が行われました。
その当時の樋(ひ; パイプ)や木製枠工(もくせいわっこう)が展示されています。
また、西樋の部材には、大型船の船材が用いられていました。

第6ゾーン「明治・大正・昭和の改修」

大正・昭和初年の改修で登場し、狭山池のシンボルとして長年親しまれてきた取水塔が、館内に移築されました。
このような鉄筋コンクリート製の取水塔は、全国でも古い例となります。

第7ゾーン「平成の改修」

平成の改修で、狭山池は、洪水を調節する治水ダムに生まれ変わりました。
また、同時に周辺の景観整備も行われました。
ここでは、改修の内容と意義を後世に伝えています。

どぼくランド

映像により、水に関わる世界と、日本の土木遺産を紹介しています。
模型やクイズを通じて、土木事業がより身近に感じられるようになっています。

情報コーナー

情報閲覧システムでは、土木遺産などの情報が閲覧できます。

狭山池博物館内の様子

狭山池博物館内の様子です。














滝のカーテン

狭山池博物館名物の滝のカーテンです。
非常にダイナミックなアトラクションですので、
この迫力を是非、実際に行って観て楽しんでいただきたいと思います。











大阪府立狭山池博物館内にある大阪狭山市立郷土資料館

大阪狭山市は、大阪平野の南東に位置するベッドタウンの都市です。
狭山という地名の歴史は大変古いもので、日本書紀や古事記にも登場します。
そして、大阪狭山市の中央に、日本最古のダム式のため池である狭山池があり、豊かな水と緑に恵まれ、古い歴史と文化が息づいています。
大阪狭山市立郷土資料館では、受け継がれてきた貴重な重要文化財を展示・解説し、大阪狭山市の歴史と文化を未来に伝えています。

展示内容1.末永雅雄と狭山

郷土狭山を生涯愛した考古学者の末永雅雄博士です。
末永雅雄博士の偉大な業績と、郷土との関わりを紹介しています。

展示内容2.狭山のなりたち

大阪狭山市は、東西が丘陵に挟まれています。
ここでは、大阪狭山市域の地形と、黎明期の様子を解説しています。

展示内容3.古代の狭山

古墳時代の大阪狭山市には、焼き物須恵器を生産する大コンビナートや、陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん; すえむらようせきぐん)がありました。
そして、たくさんの須恵器が生産され、製品が各地に流通していました。

展示内容4.中世の狭山

中世の大阪狭山市では、興福寺の荘園「狭山荘」が運営されました。
また、南北朝期には、狭山池の北西に池尻城が築かれました。

展示内容5.近世の狭山

近世の大阪狭山市では、関東の戦国大名であった北条氏が、狭山に陣屋を構え、江戸時代を通じて狭山藩が営まれました。

展示内容6.近代・現代の狭山

昭和62年(1987年)に、大阪府南河内郡狭山町が大阪府大阪狭山市になりました。
ここでは、明治から平成までの大阪狭山市の発展の歴史を紹介しています。





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